元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

自治会はまったく自由ではない

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自治会というのは、「自由とは不自由である」の典型的な例ですね。。

 

「自分たちで治める」ために時間をとられます。アタリマエですが。。

調整も発生します。いざこざも起こります。

 

自由とは、「ぼけーっとする時間が多くとれること」かもしれませんね。

そして、多くの怠惰な日本人はそのように考えているのでしょう。

 

それは一理あるのですが、必ずしもそれだけではない。

 

その「自由」の代償として、心身ともにクサってしまいますからね。。

将来的にヒドいことになります。

 

自由、とは、まさに「天職を得る」ことなんですね。

天職によって生活のためのお金を得る。天職のために毎日の生活にハリが出る

。仕事にいくのが楽しい。

 

最強です。

もちろん、時間をとられますよね。仕事に。でも、天職なのですから、無限に

時間を取られてもよいのです。天に時間を与えているのですから。

 

天職を得て仕事をする、とは究極の自治ですね。

心の声に従うには余裕が必要

stevengerrard.hatenablog.com

身体の奥底からの「声」。。日本語なのかどうなのかもわからないような。

それが、意識上からきているのか潜在意識からなのかはわからないけれど、そ

れにとにかく、耳をすますこと。まずは。

 

そして、それに従うこと。できうる限り。

たとえば。。外出先で歩いているときに、突然、部屋の模様替えのイメージが

出てきたりするんですよ。あの棚をここに移動して。。とか。あの本はどかそ

うとか。

 

そういうのは、できるかぎりメモっておいて、帰宅したらなるべく即実行。

 

朝。。ゆったり読書とかしているとてきめんに「声」が顔を出しますね。けっ

こう、「忘れちゃうから今やっといたほうがいいよ」という感じの「声」が多

いような気がします。

 

以前は、読書に集中したいので後でやろうと思い、てきめんに忘れていたので

、今は、「声」があらわれたらなるべく即やろうとしています。読書が分断さ

れてしまうのですが。。それよりも大事なことなんだろうな、と。

 

「声」に従順にしたがうためにはどうしても、時間の余裕が必要なのです。「

声」の下僕となること。自称「イソガシい」人間にはこれはできないのです。

 

 

「声」じゃないですが別のたとえで、トイレにいきたくなったときに、愚直に

そのサインに従ってトイレに駆け込むと、身体(これも「声?)の信頼を得て

、健康になってゆきます。そして不思議なことに、最初は、トイレに駆け込む

のが不可能なシチュエーションで「催す」のですが(電車の中とか重要な会議

中とか)僕はこれは神のいたずら? というか重くない意味での「試練」なの

ではないかと。

その時期に100%ではなくともそれに沿う努力をしていると、だんだんと、

試練ではなくなってきます。つまり、ゆったりとヒマしているときに「催す」

のですぐトイレにいけたり。

 

本末転倒っていうのはあまり良い意味で使われませんが、それを逆に活用する

のです。つまり、トイレにいつでも駆け込めるような人生設計をする。それを

考えるとどうしても、朝、家で一回済ませようということになり、そのために

は、朝余裕を持って早起きするようになり、運動して食事をして水も飲んで、

朝出やすい環境をつくってあげるようになり、結果的に健康になります。

 

僕はこの「本末転倒を逆手にとる」という健康法で、だいぶ楽になりました。

真の頭脳労働者

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とにかく「頭脳労働者」でありたい、と。ずーーっとそう思い続けている。強く。

なぜなら、「アタマがいいから」と書くと語弊どころの話じゃないんだろうけど。。
相対的に頭脳労働が向いていると信じているのです、自分を。

アタマがいいっていうより考えるのが得意? 考えてアウトプットを出すのが得意、っていうことかな。
独りよがりのアウトプットじゃなくて、それを求めてくれる人がいる。それがカネになっている。結果を出している。


あのね、リーマンって頭脳労働者であるかのように見せかけて「けっこう」そうじゃないから。

彼らってすりあわせの権化。必要なのは調整スキルだから。それってアタマを使わないことはないけどド頭脳労働ではない。

あと事務作業ね。これもホント「作業」であってアタマを軽くつかうけどもド頭脳労働じゃないし。

ド頭脳労働したいの!とにかく。

いや、リーマンは確かに、ある程度アタマが良くなければ勤まらない。それは、知ってるんだよ当然。その前提でこれ書いてるから。


オレに関していえば、オレの脳はまったく衰えを知らないし、死ぬ直前まで問題ないと確信している。
以前、ドライバー系が年取ってからの職業としてよいのではないか、ということを書いたが。。それと類似した話で。

年取ってから衰えない技能なりスキルだったら、それを活かせばいいじゃん、と。それがオレの場合たまたま「頭脳」であっただけだ。


話がぜんぜん具体的なじゃないんだが。。具体的にならないまま終わる。
オレが得意つーか他人に代わってやれるのは、オレの頭をフルに使って、死ぬほど使って、その人や組織(困ってる前提)に対してなんらかの「ソリューション」をね、ひねり出してあげる。

あ、そうか、それにより「感謝」されたいのかオレは。カネは当然いただきながら。
感謝されるためにはリアル社会でそのソリューションが、役に立たなければならない。なんとなく役に立つ、じゃたぶんダメで(お金をいただくのであれば)、かなり!劇的に?役に立たなければならない。

おおげさにいえばクライアントの人生を変えるぐらいってこと。そのぐらいしないとクライアントの財布からカネは出てこねえんだよ。

マラソンにたとえるとー ロサモタがーw

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長距離走で走ると、集団が形成されて。。

 

その集団に完全に入ってしまうと、その集団のペースで走らざるをえなくなる

ペースを守らない(けど、その集団にいたい)ヤツがいわゆるKYってやつ。

 

 

ペースを守らないなら逸脱すればいいだけの話。。

 

その、集団のペースってやつが、自分にとって早すぎることもあるし遅すぎる

こともある。つまり、ペースが自分にぴったりフィットする集団ってのはほぼ

、ないわけ。

 

ないけど、我慢する。なぜなら、「風がこない」からね。

 

 

中に入っちゃうと出るのは難しくなる。その理由は、ぬるま湯だから、とは限

らない。

その集団のペースが、自分のベストよりも早い場合、ムリすることになるから

、鍛えられるわけだけど、超ストレスがたまる。(この集団は)自分を鍛えて

くれる、ラッキー、と思えるか、イヤだなあと思ってストレスばかりためてゆ

くか。

 

後者は、突然倒れる。

前者は、ほとんどいないよね。

 

 

最初から横道にそれておくべきだと、思うんだよ。「並走」ね。脱落するわけ

ではない。集団を「気にしながら」走る。

 

集団と同じペースで走るのであれば、単独だと風を一手に受けるわけだから、

単独のほうが大変。

 

そして、「集団を先導する人間」でもいいんだよ。でもそれは、単独で走るよ

りもっと大変でさ。いつでも飲み込まれる危険性を秘めているから。駆け引き

とかあるしね。イバラの道。

 

集団から脱する労力ってのは、相当なもんだから。

願望はウソではない

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願望、夢の類を語ることは、それがたとえかなり荒唐無稽なことであったとし

ても、あるいは超わがままな願いだったとしても、決して「ウソ」ではない。

なぜならそれは未来に起こりうることだから。

 

でも、あんまりそういうことを語っていると、現代社会では、残念ながらただ

のアホだと思われるから。。

心にしまっておくか、誰も見ない紙に書き出しておけばいいのです。

 

ただし! その願望なり夢なりを、精査して精査して、絞って絞って、具現化

に近づいてきたら、堂々としゃべればいいのです。それはもはや「荒唐無稽」

ではないのだから。

 

「実現させたい」と自信をもっていえるのであれば。実現させたいと他言する

には、そして「アホちゃうか?」と思われないようにするには、けっこう理論

武装が必要でしょう。

 

その前段階の、たとえば自分は海を渡って故郷に錦を飾る、みたいな(たとえ

が悪いかな。。)そういうのに「酔ってる」時期というか。。「それが好きだ

というキモチには自信がある!」という段階のときは、まだしまっておいたほ

うがいいのです。好きだというキモチにだけ自信をもっていて、「実現させる

自信がある」にはぜんぜん至っていない段階のときはね。。まだだね。

人生論!

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複数の方が(それぞれのいいまわしで)書いていることなので、引用はしませ

んが、人生の「キモ」は

(ここから大事ですよ!)

 

「自分が困ってるときにいかに他人に親切にできるか」

 

なのです。

 

 

わかりやすいたとえでいえば、借金を返そうとしてるまさにそのときに親戚や

親友がやってきて「とても困ったのでカネ貸してくれないか」と。。こういう

ときに「快く」貸せるか?と。

このたとえでは、その人が返してくれる可能性はほぼ0%です。

 

結局、自分がピンチのときにね、おっかぶせるようにピンチはやってくるもん

だし、そういうときに、かなり「純粋」に、自分と同じぐらいピンチの人間に

手を差し伸べることができるか。

そういうときは、「試されている!」ということ。そしてそういうときに施し

た徳というのはほぼ100%かえってくるのです。(あなたが「ずる賢い」生

き方をしていなければ)

 

ほぼ100%返ってくるし、加えて、高い確率で多めの利子付きで返ってきま

す。

 

 

年収一億の人間が100万寄付したところで、何も変わらない。そこに「徳」

はない。年収200万の人間が100万寄付することに意味がある。(これも

たとえです)

 

本当の健康法とは

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 本当の健康法とは、最初に結論を申し上げれば、たぶん「生き残っているもの」なんですね。

 スパンとしては「(最低でも)数十年」でしょうね。現在星の数ほど出まわっている健康法は、残っているようにみえてもまだまだ日が浅いかもしれません。淘汰を待つ必要があります。

 昔からの健康法だから正しい、最近ぽっと出だから正しくない、とすぱっと切り分けることはできません。医療技術等の進歩により、最近やっと分かってきたことは、たくさんあります。

 ただし、新しいノウハウもたくさん生まれていますが、技術や医学が進化した結果として「やっぱり先達の叡智は正しかった」という結論になることも、たくさんありますね。



 例えば、反対意見がほぼ皆無のもの。有無を言わせないもの。以下のような。

早寝早起きする
野菜を食べる
日光にあたる
朗らかに暮らす

 これらに対して、反論はあるのでしょうか?上記の4項目に対して、「~すると、不健康になる。なぜなら~」と、証明できる方はいらっしゃいますか?

 21世紀に入り、これらはますます「鉄板」になってきているような気がしますね。と考えれば、多くの方は、「何が正しいか」は分かってきているのです。それをやるかやらないか、だけの話で。



 昔流行った、若い人たちの「自分探しの旅」においては、彼らは成人しても「何が正しいのか」が分からないままである、といいますか、若さゆえにそれがおぼろげであるがために、それをはっきりさせるために「旅」に出るわけです。ということは、それが分かりさえすれば「旅」は終わりを迎え、若者は正しい方向へ向かって邁進するようになります(邁進したくなくとも「旅」が終われば、進まざるをえなくなる)。

 ところが、最近「自分探し」が流行らないのは、(ここからは私見ですが)「旅」に出る必要がないからなのです。「何が正しいのか」の答えはカンペキに世の中に出揃ってしまっています。(「情報」として)しかも、答えは1つではなく、人それぞれに用意されるものであることすら「世の中」は分かっています。

 極端にいえば、ググれば出てきます。



 というわけなので、クレバーな若者にとってはこんなカンタンな世の中はありません。「自分探し」のプロセスをすっ飛ばして、ショートカットで「何が正しいか」を認識し、それに向かって爆進してゆきます。最近の若者をみていると、たまに「とてつもなく頭がキレる」人がいますが、そういう人は迷いなく、世の中が用意したショートカットに最初から素直に乗っている人です。

 最近のスゴい若者は、ひと昔前のスゴい若者より相当スゴいですよ。まぁオールドタイプな方々は「苦労が足りない」とかぼやくのかもしれませんが、本当に「レールに乗って」爆進している若者に「苦労」という名の置き石は必要なのでしょうか?爆進するのを邪魔せず、そのままはるか彼方まで突っ走るのを暖かく見守ってあげれば、よいのではないでしょうかね。



 でも、そういう選ばれた若者はほとんどいませんので……。最近の「普通の若者」は、「(自分なりの)何が正しいのか」の答えがはじめから用意されているがために、「分かっていても、やらない」状態に陥ります。

 ひと昔前の若者は、世の中が半端に複雑だったがために「(自分なりの)何が正しいのか」がよく分からず、それを明確にする作業が必要でした。ですので、ある程度苦労をして「何が正しいのか」がわかったならば、それを大事にしました。

 現代は、世の中がさらに加速度的に複雑になったがために、逆にそれのカウンターとしてこの世の中を生き抜くための「答え(模範解答)」もそのへんに転がっています(いわゆる「マニュアル」とよばれる類のものです)。先ほど書きましたとおり、模範解答は1つではなく、多岐にわたり用意されていますので(「余計なお世話」といってよいぐらいに!)、若い人たちはその中から自分に合うであろうものをチョイスするだけです。

 そのへんに転がっているがために、今の若者は、大事にしないのです(「石ころ」扱い?)。

 大事にしないがために、たくさんの選択肢があるのに、チョイスに失敗したりします。



 で、やっと「健康法」の話に戻りますが……。

 「何が正しいのか」はもはや誰もが分かっている。でも、ほとんどの人はやらない。ので、「なぜやらないのか?」を考えなければなりません。

 私もよく若い人に口癖のように言いますが「分かってんならやればいいじゃん!」というのは、もはや愚問になってきています。

 「分かってる」イコール「やれる」(スタンバイOK!)状態ではないのです。



 私が、とても不思議に思っているのは……「『何が正しいのか』はもはや誰もが分かっている。でも、ほとんどの人はやらない。」ここまでは分かるのです。が、正しいことを分かっているのに、「正しいらしいこと」に手をつけるのが、分からないのです。

 例えば、上述した鉄板の健康法が正しいと頭の中では理解しているにもかかわらず、なぜかみのもんたの番組にそそのかされて(失礼!)「毎日バナナダイエット」に走ってしまうとか……。

#すみません、実はみのもんたさんの番組はみないので、てきとうに印象で書きました

 正しいことを分かっているのに、天邪鬼に、「正しくないこと」に手をつけるのなら、分かるのです。なぜなら、それは「人間だから」。「テストの前日になぜか押入れの中に埋もれていたマンガを引っ張りだして全巻読んでしまう」理論で説明できます(笑)。

 健康法の話に引きつければ、正しい健康法は分かっているのに〆のラーメンは欠かさない、とか、夜中に焼肉を食らうとか。反動で「そっち方面」に走るのは、すごくよく分かります。

 でも、「正しいらしいこと」に手をつけるのが、私に分からない。それは、明日数学のテストなのに理科の勉強を徹夜でやるようなものです(ゼッタイ、やらなかったですよね!)。

 いっそのこと何もやらなきゃいいのに……。