元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

腰のハナシ 二次情報はツマラナい(再)

本来の日記部分

  • 体調

いや、薄々感づいてはいたのですが。。
健康のためにと再開したアンクルウェイト、リストウェイトの常用が腰に負担をかけているのは間違いのないところです。

ですので一旦やめましたが。。
やたらと身に着けておくのではなくて、たとえば散歩のときだけ、とか限定すべきなのでしょう。

再録

最近、どころの話ではなく、日本人全体の日常会話というのは「昨日テレビで見たんだけど。。」とか「雑誌で読んだことがある」など、「受け売り」に汚染されすぎています。
(略)
たとえば隅田川の汚染が、人々の努力によりだいぶマシになってきたように、この日常会話の「汚染」も、あと何十年もしたら浄化されてゆくでしょうか。

地デジに切り替わったときに、誰かが何らかのトリガをひいて、皆がテレビから離れてゆくように誘導してくれると、それもありうるかもしれません。

自分は、他人の「テレビで見た話なんだけど。。」などという話題は聞きたくもありませんし、それゆえに自分も、そのような話は一切しないことにしています。

引用は、本であれば、します。

自分が会話で引き合いに出すのは、自分の体験と引用(本のみ)、それと他人の直接経験を、私が直接聞いたもののみです。

いわゆる「トモダチのトモダチが〜」という話は、よく聞きますが、自分のところでストップしておいて、他人には流さないようにしています。

他人の直接経験の話を聞くのはとても好きで、楽しいものです。それが、自慢に近いものだったとしても、ある程度は許容します。
でも、他人がそのまた他人から聞いた話、とかになると、つまらない。他人がテレビで見た話など、聞くだけムダです。

自分もムカシやっていました。これも日記に書きましたが、昨日の夜の久米宏やら筑紫哲也やらのオピニオンを、そのまま翌日他人に話してました。
そういう、「上滑りする会話」のほうが、確かに盛り上がったりはするのです。
でも、やめました。

そう、それで、何を話したかったかというと。。
こんな私でも、ほんの少し需要があるんですよ。私と飲みたいとか話をしたいとか、言ってくれる人がいる。
それは、幸せだなあ、ということ。

私と同じように、他人と上滑りする会話ばっかりしていたくない、たまにはもっと重みをもったコトバをぶつけあって議論などしてみたい、と考えるヒトが、少数派ですがいるのですね。
だから、私は、そのわずかな機会のために、自分の話すネタ(つまり、自分の一次情報とその周辺)に磨きをかけておかなければならないわけです。
誰かにそうしろと言われているわけではなくて、それがささやかなる自分の義務だと考えています。

ホンキの会話は、私は、ストロング・スタイルのプロレスだと思っています。
受け身によって相手の技の美しさを最大限に引き出す。そしてそれに喜びを感じることができます。
会話において、受け身には相当自信を持っていますし、もちろん、攻撃に転じたときのハデなつなぎ技も、フィニッシュ・ホールドも持っているつもりです。それは、相手があうんの呼吸で、求めてきたら、出します。
目標とすべきは、ムカシの蝶野正洋さんのスタイルですね。(漠然としていますが。。)

そういえば、「観衆」がほしいなあ、と考えることは、ありますね。。
ストロング・スタイルのプロレスをケガなくやるためには、常に互いに切磋琢磨する必要があります。
そしてそれは、昇華してゆけば観衆を満足させるものにもなりえます。

私の場合は、観衆は付いていませんが、常に観衆を意識した切磋琢磨をしてきた自負はありますので、自分の「会話」は、皆が同じ土俵に乗ったら絶対的に他のヒトたちより面白いという自信を持っています。
同じ土俵とは、「テレビ、雑誌の引用禁止」になったら、という想定です。
「テレビで見たんだけど。。」は、楽ですからね。

ムカシ、西部邁さんが、おそらく「ゴーマニズム宣言」の中だと思いますが、以下のような話をしていました。
学者というのは、ふだんは隠遁生活をして外界と遮断して本でも読んでいればいいんだ、有事以外のときに学者がしゃしゃり出ることはない、と。
有事のとき、そして、誰かが話を聞きにきたときにだけ、「それは(僭越ながら)こういうことではないですか」と、説明してあげれば、それでよい。学者なんていうのはそういうヤクザな商売である、と。

まあ大筋は完全に忘れていますがこういう話だったことは間違いないです。

それを読んで「ああ、なるほどなあ」と思ったのです。