黙っているためには
ムカシからなるべく、黙っていようとはしています。たとえば、ちょっとアタマがイタいとかどこがイタいとか、そういうのとか、テレビに対してツッコミをいれたくなったときとか、とあるお店で料理がおいしくないときとか、駄洒落を思いついたとき(!)とか。。
どちらかというと「グチ」方面。ネガティブなこと。
どうしてそうなったのかはわからないのですが。。
自分がしゃべることによって、モノゴトが解決に向かうのであれば発言するよ、というスタンスですね。
グチをいったところではじまらないのであれば、言わない。
それと、場の雰囲気を気にするというのはありますね。
自分のこのスタンスに対しては、根本から理解を示してくれるヒトは、実はほとんどいないということに気付きつつあります。
理解してくれるのは、同じような主義を持っているヒト。
まず、「黙ってりゃ付け上がる」ヒトがたくさんいますね。
それと、「何か思ってるんなら言ってくれよ」「何を考えているのかわからない」と逆ギレするヒト。そういうヒトは「推察力」が欠如しています。
ただただ、「そういうヤツなんだ」ということで、ほおっておいてくれればそれでいいのです。
黙っていることで、迷惑はかけないのですから。
ただ、「黙ってる」というコトバの選択自体、正しいのかどうか。。
「グチ方面」はなるべく語らないようにしていますが、それ以外のことではけっこう饒舌なので。。 全くもって「無口」ではないのです。
でもムカシは、ヒトを褒めることもほぼ皆無でした。それが変わったのは、「褒める」という発言は「モノゴトが解決に向かう」に等しい、ということに気付いたからですね。
「肝心なことをしゃべらない」という言い分に対しては。。
自分の思いをそのままストレートに表すことが「肝心なこと」ではありません。ゼッタイに。
それは「垂れ流し」に等しい。
先日書いた、たとえば電車でウォークマンをシャカシャカさせている若者に対して黙っていること。「それが悪いかよ」の話につながってきそうですね。
常に、「黙ってる」訓練をしているがために、そういう醜い光景を見ても特にスルーできるのかな。
そういうスタンスを「逃げじゃないのか!」と、自分がその場に居合わせたらゼッタイに何も言わないであろうヒトたちに対してこそ、的確な発言が必要ですね。
釈迦は自分の国が滅ぼされようとしていたときも発言はしなかった、と聞きます。
それは、その事実を完全に予見できていたからだ、と。