元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「空間」をつくる努力

こうありたいまたは反面教師

  • 空間をつくる(異常ともいえる)努力

私は整頓された部屋が好きです。
ですから、部屋、あるいは家が整頓された状態を維持するために全力を尽くす。その結果、時間がなくなったり、疲れてしまったりします。

オカシな生き方ですね。オカシいという自覚は、もっているのです。
オカシいというのは滑稽という意味であって「間違っている」とは思いません。

でも、仕方がないのです。目に見える風景が整頓されていないと、自分が不機嫌になってくるのがわかるのです。それは自分のためにも他人のためにも、よくないことです。

そして、整頓された状態が維持されていると、若干の満足感があります。

掃除好きとも若干違いますね。目的は「整頓」であって、たとえばホコリがたまっていてもそれほど気にはならないようです。(もちろん、人並みに「ふつうに」気にはしますが)


以前より、「なんかオカシいなあ。。」と感じてはいたのですが、自分のこの異常ともいえる整頓好きに対して理屈づけをしたいなあ、と考えていました。

つい数ヶ月前まで考えていたのはそれこそ「セ・ラ・ヴィ」(「それが人生さ」)ということかな、と。
でもそれだけでは、自分的にはヨワい。納得感がないのです。

最近考えたのはふたつのアプローチで。。
まずは、「空間」に対する個人的な考え方。

「空間」は空間という「存在」なのだということです。
空間というのは、モノをおく場所ではない。空間とは空間なのです。

ですから、モノをおきたいがために「場所を空ける」(これこそ「整頓する」)という考え方が好きではないのです。

整頓するのはただ単に空間を現出させたいだけなのです。それで終わりです。それ以上の、モノを置きたいとかそういう目的は、ない。


もうひとつは、整頓されていれば「幸せ、のようなもの」を呼び込むに違いない、という思いがあるからですね。
以前は、考え方が逆でした。整頓されていないキタナい部屋には「幸せ、のようなもの」はやってこないのだろうな、と。
前者と後者の考え方は、同じようにみえて実はだいぶ違うのだろうな、というのは最近理解しました。


「呼び込む」というのは、「刷り込み」に近いもので、意識レベルのハナシです。
日常で目に飛び込んでくる風景を、大事にしなければならないと思っています。

日常で目に飛び込んでくる風景が、整頓されているのと、散らかっているのと、どちらが、意識レベルにとって良い影響を及ぼすか?
それはもちろん前者で、それに対して「なんで?」と聞くようなヒトとはおトモダチにはなれません。。

そこまでは大筋agreeしてもらえるとは思いますが、最近考えていたのは次の比較です。
整頓されていて「モノがない」風景と、整頓されているが「ゲージツ品であふれかえっている」風景と、どちらが意識レベルに良い印象をおよぼすか?

「ゲージツ品」というのは絵とか壷とか花とか、まァそういうものだとお考えください。

どちらがよいか? 「モノがない」という「空間」を、「存在」と考えれば自分は前者だと信じます。空間という「存在」はゲージツ品に勝る。

その確信はあるのですが、証明をできないのです。
それは、おいおい考えてゆきます。


自分の目に飛び込んでくる風景が整頓されていれば、たとえばコドモもそれがアタリマエと思い、整理整頓するようになるのではないでしょうか。

なんでもおかあさんが部屋を片付けてしまう、掃除してしまうのはよくない、といわれますが、常に整頓された風景をキープするという点では功罪の「罪」ばかりではない、と考えています。

これも(どちらがよいのか?)自分にとって重要な問いです。