元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

自由

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僕の場合、生活に「政治」がないこと、すなわち「しがらみ」がないのが、「幸せ」の第一条件のような気がします。そういうふうに明確に定義をしなくても、意識的か無意識かわかりませんが「政治」を避けてきたのは間違いありません。

ですので、僕にとって「幸せ」とはすなわち「自由」なのですね。真の自由。

「政治」を避けることによる批判は、聞こえてきていたこともありましたね。たとえば「オトナになれよ」とか、そういった類の。

ある程度年をとり、そういうのを「受け流す」術を身につけたというのがひとつ。(それも自由になるための手法ですね)
もうひとつ、わかったのは、僕に「オトナになれよ」と助言する人ほど真のオトナではなかった。オトナとは必ずしもしがらみを引き受ける人間ということではない。

しがらみを引き受けずともオトナになってゆく人間(僕のような)に対する嫉妬が、間違いなくありました。それも含めて、受け流すということですね。


僕にとっては「自由」が幸せになるために第一条件ですが他人は違うのでしょう。しがらみを欲し、しがらみから逆に守られることで幸せを感じるタイプの人間もいるのでしょう。

そういう人たちと僕との違いは、(はっきりいいますが)自身で節制が効いているか否か。
僕は、節制をすることができます。だから、しがらみはいらない。
なぜなら、節制をするための努力をしてきましたから。そこに「選択と集中」をしてきたのです。

僕の場合ほっといてくれれば規則正しい生活をするし、よく働きます。
だから自由を謳歌できるのです。そういう権利を有しているわけです。

最近(といっても数年前)気付いて愕然としたのですが、世の中の大部分の人は自分を節制することができない!!
そういう人が僕に嫉妬していろいろいってきたし、僕に「しがらみが足りない」と余計なお世話をしてくるのだなあ、ということがわかりました。