元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

掃除をすること

掃除をすること

掃除をしていて、状況がキレイになるということは実は副次的なものでしかないのです。

大事なのは掃除をすること、そしてやり続けることです。

掃除することによりキレイになって、みんなが気分がいい、というのは確かにすばらしいことですが、そのためだけに掃除をするわけではないの です。

誰かをほがらかに、幸せにしようという主目的で活動を行うことが、至高かと思いきや、実はそうではないのです。

最後は、自分に戻ってくる。

これは、ムズカしいですね。


動機として最初は、ちらかっていると自分が不愉快だから、掃除する。次に、自分とともに周りも幸せな、ほがらかな状態になるように、掃除す る。

でも最後は、自分でも他人でも、誰かを喜ばせようとするという目的すら超越して「ただ」掃除する。

ここに戻ってくると「禅」なのです。

子供は、ほめられたいという動機でよい行いをします。オトナは、そういう動機がなくともよい行いができます。(やれるかどうかは別です が。。)

でもおそらくオトナは、自分をほめたいがためにやっている。あるいは、若干は他人によい行いをみられたい、賞賛されたいという欲求は残って いる。

それを、ふりほどけるかどうか。まったく動機なく、直に、反射的によい行いができること。何かしらの見返りを求めるココロをカンゼンに捨て 去ること。

「陰徳」とはそういう境地のことをいうのでしょう。