元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ココロのセマいヒト!

本来の日記部分

  • 仕事

昨日は徹夜仕事でしたので日記を書きませんでした。そういえば日記を更新しない日というのは珍しいですね。。

いきなり睡眠のリズムが狂ったので、眠いです。。
それとだるい。




再録

(略)
昨今は、「咎める」というか、他人に「注意する」タイミングが難しいのかもしれないですね。

たとえば、待ち合わせに遅刻する常習犯がいたとして、「いいかげんにしろ」と咎めたとすると、その場はもしかしたら、「内心拍手喝さい」になるかもしれません。

「よくいってくれた」といわれ、「ココロのセマいヒト!」とはいわれないでしょうね。

遅刻をあまりしない、1回目ぐらいのヒトに注意すると「1回ぐらいいいじゃん(ココロのセマいヒト!)」と総スカンを食らうのでしょう。
(略)
この「ココロのセマいヒト!」になるかならないかのボーダラインを考えるのは難しそうですが。。 そもそもなぜそんなことに気を遣わなければならないのだろうか(=>「馬鹿らしい!」)ということになってゆきそうですね。

この遅刻の例でいえば、時間にキビしいヒト、自己管理ができるヒトが、遅刻常習犯を注意する役回りに自然になってしまうように思います。

なぜそうなってしまうのかが、わからない。自己管理ができるからといって自己管理ができないヒトたちを矯正する義務は全くないわけで、ムシしてもいいはずなのです。

であるにもかかわらず、「なってない」ヒトたちを矯正するという損な役回りを「自然な流れ」で(これがクセモノ)押し付けられてしまう。。

その、押し付けられた役回りから逃げ出そうとすると、「ココロのセマいヒト!」攻撃が待っている。。

なぜ「なぜそうなってしまうのかが、わからない」のか。。

「その他大勢」のヒトたちは、自己管理をデキるヒトが、デキないヒトを矯正する役回りになるのが、「自然」と考えているからです。その「自然」を説明できないからです。

デキるヒトが、デキないヒトをムシすることが、「自然」ではない。。

私が思うのは、この社会においては、ムシするほうが自然だと思うのです。

良くも悪くも、そういう世相になってきているはず。

そこで、「じゃあアンタらがやればいいじゃないか」(=>「馬鹿らしい!」)と反論すれば「できるヒトがやるべきだ」といわれ、ぐうの音もでない。

それは、懐柔ですよね。しかも、自尊心までうまい具合にくすぐられ。。



結論としては、「ココロのセマいヒト!」攻撃に対しては、「わりーかよ」と開き直るしかないのですね。おそらく、何ら悪いことをしていないわけですから。一部の、真に「ココロのセマいヒト」にとっては都合の悪い行動をしているのかもしれませんが、そういうヒトたちの都合に振り回される必要は全くないのです。

「ココロのセマいヒト!」攻撃は、言い方を替えれば「見損なったよ。。」ということでしょうから、「どうぞ見損なってください」と。

ベタな庶民として、マスコミに洗脳されるのを由として生きるヒトたちに見損なわれたところで、イタくもカユくもない、と思わないと。。

逆に、そういうヒトから距離をおけるのでラッキー、ということです。