元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

人生レース

こうありたいまたは反面教師

  • 人生レース

50歳ぐらいになれば、いや、おそらくもっと早い時期に、たとえば「天下り」のような、「世の中に守られながらかつ利益も享受できる」という状態になろうとするヒト、あるいは実際そうなっているヒトたちに対して、今自分がもっともキラっている「嫉妬羨望」の念を抱くようになってきてしまうと思うのです。
それどころか、同世代の、自分と同じ時代に一緒にガンバってきた世代がふつうに出世してエグゼクティブになっただけで、自分の中の「嫉妬羨望」回路が作動してしまうかもしれない。

それはおそらく、「身体がきかない」という状態になってきた頃。。

幸い今は、そういうことはないのですが、そうならないように今から先手を打っておかなければならない、と強く考えるのです、最近。

その、「ココロの」側の対策というのはたとえば「貯金をしておく」とか、わかりやすい「備え」と同じぐらい大事なはずなのです。


人生をレースにたとえれば。。
同世代は、最初はダンゴレースであっても、年齢とともに差がついてきます。50歳をすぎると、最大の差がつく時期になってきます。

今自分は、「身体がきいている」のもあって、先頭集団とまではいきませんが「ふつうに」走れています。
テレビカメラがくっついていく先頭集団に入るつもりがなく、自分のペースを守っているので、先頭集団に対しての嫉妬羨望の念が起こっていませんが、これから、なんだか疲れてしまってペースダウンしてしまうかもしれませんし、足に痛みが走ってリタイヤしてしまうかもしれません。

「自分のペースで走れなくなる」という状態になったときに、いろいろなことが崩れてしまって、先頭集団はもちろん、ふつうに走れているヒトたちにまで嫉妬羨望の感情を持ってしまうのです。

さて、それではどうするか。。 今スパートして先頭集団に入るか、あるいは「勇気ある撤退」をするか。。
「ふつうに」走れなくなったときにどうするか、最善の回避策を「走りながら」考えなければなりません。

再録

ルーティンワークができないヒトは、自分は、日常の様々な障壁さえクリアできれば(イコール、誰かがやってさえくれれば)ルーティンワークなんてカンタンにできる、と、ほとんどのヒトは思っているようです。

ルーティンワークが「できない」というのはつまりその「才能がない」ということです。

ということから常に目をそむけています。「才能がない」ことを直視すると、自分のプライドが瓦解するからです。

ルーティンワークを「しない」ことがイコール「クリエイティブ」とでも思っているのでしょう。

そういう大きなカンチガイをしている人に対する違和感は、数ヶ月前のこの日記のメイントピックで、よく書き出していました。

ムカシ、高校の頃いた、「運動神経の悪いヤンキー」のような。。

運動神経の悪いヤンキーは、体育のときは、自分の威厳を保てないため、よくサボっています。

自分のそれなりに得意な種目、球技は参加して、我が物顔でふるまいます。

自分が苦手な球技になると、「キライだから」と参加しようとしません。

でもホントは「キライだから」ではないのです。「できない」のです。「才能がない」のです。

それを認めることは、プライドが許さないのです。


脱線。

ところで、それどころの話ではないのです。

ルーティンワークができないということは、つまりは、「ワーク」全体ができないということとイコールなのです。

ひいては「生きてゆく」才能自体にもとぼしいということなんです。なぜなら、いつもいっているとおり人生の99%は「日常」ですし日常とはルーティンワークに非常に近いものです。

「ルーティンワーク」に対峙する姿勢をみることで、そのヒトの器量がよくわかります。


この日記で何回も使っている「目をそむける」というコトバ。。

これですね、私が好きでない人種に共通する特徴は。

モノゴトを直視できないんですね。

この話を振られると湯水が湧き出すようにしゃべれそうですね。。

日常の面倒くさい「ルーティンワーク」を誰かがやってくれさえすれば、自分本来の才能を発揮できるのに。。と考えている「大きなカンチガイクリエイター」たちへ。。

忙しい中で自分の時間を見つけてゆくことこそ「クリエイティビティ」ではないのか?

「クリエイティビティ」の原点は「工夫」でしょう。

アナタの「クリエイティビティ」を発揮して、ルーティンワークの時間短縮に努めればいい。

ただし、妙なプライドに急かされて、ルーティンワークを「サボタージュする」方向に向かわないように。

そこでアナタの器量がわかりますよ。

まあ、「時間がないせいで自分のやりたいことができない、クリエイティビティが発揮できない」なんて考えている時点でそのヒトに「クリエイティビティ」はないと断言してもよいです。

それを、内心で思ってもダメです。そう思った時点でそのヒトは「デキないヒト」に堕していきます。


ところで、そういうヒトって。。

大きなカンチガイのひとつとして、時間のかけどころが間違ってる、というのがあります。

忙しい中でも、とあるポイントではじっくり時間をかけるべき、というところがあります。

そこを気付かずに、スルーしてしまう。「才能」がないヒトは。

で、後でまた余計な負荷がかかる。

その「みきわめ」ができないところが、「クリエイティビティ」の欠如そのものなのです。

前にも書きましたが、「ワーク」をできない人間が「クリエイティビティ」どうのこうのなんてカタるなよ、ということです。