元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

肩書きの効用 道にただ立っているヒトたち

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 道にただ立っているヒトたち

ミチクサしていると、けっこう人通りの多い商店街(車があまり通らない)で特にそうなのですが、ただ立っているおじさんおばさん、おじいさんおばあさんがいます。

ホントに、立ってるだけ。じっと往来をみていますね。

路地裏にも、そういう方がいます。

自分の家の窓からみてれば事足りるはずなのに、わざわざ外に出て、見る。

もっとお年寄りになると、自分の家の前に安そうなパイプ椅子を置いて、いつも座っている。ただ座っている。


なぜカレらは立っているのか? と考えてしまうのはおそらく野暮なのでしょう。
私はすごく、そういうヒトに好感をもっているようです。
自分もそうなるであろうという予感もあります。

でも自分だったら、街の風景をツマミに飲んでしまいそうですが。。

自分について

  • 肩書きの効用

若かりし頃は、肩書きとか、つまり、自分や他人が「ナニモノなのか?」がわかるためのパラメータがすごくキラいで、「肩書きだけじゃなくて中身で判断してくれよ!」というアオい考えをもっていました。
そのくせ他人はバリバリに肩書きで判断しているクセに。。

実際問題、若い時期というのは「中身」というのはスカスカで、ゼロに等しいのですから、若い自分で本気で「中身」で勝負しようと思ったら、世の中に出たらコテンパンなわけです。
でもそれには気づかない。これこそが「ワカゲのイタり」なわけでして。。

だからこそ、若い時期こそ「肩書き」は大事なのです。どこの高校、大学を出たとか、どこに就職した、とか。

でも、歳を取ると、あれだけキラっていた肩書きに対しても、皆が肩書きを気にするのには意味はあるのだ、という理解はできるようになります。いえ、理解しなくてはならないのですね。
もうホントに、若くはないのですから。自分の行動すべてについて、「ワカゲのイタり」でエクスキューズすることはもう、ゼッタイにできない。

たとえば、有名企業の課長クラス、とか、そういう市井レベルの肩書きについても、その重みがわかるようになってきます。そういう肩書きが、そのヒトの努力と素養なしには成り立たないのだ、ということがわかってきます。
少なくとも、世の中の大部分のナニモノでもないヒトたちよりは。

ましては、まだ世の中にすら出ておらず、努力を始めてすらいないワカモノとは、比較すらできない。ワカモノは、まだ、「ゼロ」であり、ちょこちょこワルいことをしてる子らは、マイナスからスタートしなければならないのです。
ゼロはまだいいにしても、マイナスから「人生レース」をスタートしなければならないことがどれほどのハンディキャップになるか、ということは、当の本人はゼッタイにわかりません。「ワカゲのイタり」ですからね。。


でも、その肩書きの意味を理解した上で、自分は未だに「中身で判断してくれよ!」と叫んでいます。つまり、もはや「ワカゲのイタり」で叫んでいるのではない。ホンキなのです。

なぜならば、自分はムカシから、そして今も、世間に対しては「ナニモノ」でもなく、常に丸裸で生きてきたからです。
冬だろうが夏だろうがどんなコンディションであっても、「衣類」をとっぱらって歩き続けているがために、だいぶ皮膚と「中身」は頑丈になってきました。つまり、僭越ながら「中身で判断してくれよ!」と言えるぐらいにはなったかな、と。

でも、「中身」というのは頑丈なだけではだめで、これからはもっと磨かなければならないと強く思っています。