元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

お金を使わない

本来の日記部分

  • 体調

なんとなく眼鏡を終日かけ続けているのがツラい、いや、ツラいまでいかないのですが眼の疲労が以前と比べて出ているような気がするので、休憩のときなど、眼鏡を外すようにしています。

下世話な話ですが最近下ッ腹が出てきたような気が。。
仕事のストレスが少ないとき、お腹が出るんですよね。。 それは良いことなのですが。。

ダイエットしたいヒトは、まず、ストレスのある仕事をすることですね。

  • 仕事

現場のリーダと面談。別な現場の立ち上げに入ってくれ、と。。
今の現場である程度の実績を出して、その評価で、他の現場のリーダに自分を推薦してくれた、といったところが、嬉しいじゃありませんか。

それはよいのですが、せっかく、慣れてきたところだったのですが。。
また新しい生活ですか。新しい現場、生活に自分をアジャストさせるのがまた負荷ではあります。(そういう流浪の生活なのでもう慣れていますが。。)




結末にたどりつく過程を楽しみにできない。あるいはそこに充実感を感じられない。
最初から結果を求めるのではなくて。。
早く結果が欲しいんだったら毎日続ければいいのですよ。それでもじれったいのであれば毎日やる時間を増やせばいいハナシで。

時間をかければかけるほど結果への到達が早まるのは自明なのです。
ということは、逆説的にいえば、最初から結果に到達することなど、できないわけですね。

いえ、最初から結果に到達できる行為というものは充実感、楽しさの対象になることはほぼ、ないわけで。。
たとえば、道端でものすごくノドが乾いた、となれば、コンビニに入ればカンタンに結果を得られます。

それは、本にはなり得ない。ノドが乾いたらコンビニを見つけましょう、という本は、書いたとしても売れません。

何か、皆が羨む結果に到達したヒトが書くHowTo本というのは、もしかしたらそこにたどりつける最短コースを書いてくれているのかもしれませんが、だからといって瞬間的に到達できるわけではないでしょう。

。。なんだか私が同じくキラいな、ダイエット周りのハナシに進んでゆきそうな気が。。根っこは同じですからね。


ハナシをちょっとスライドさせて。。「HowTo本はキラい」と書きましたが、何のHowToかといえば、「大金持ちになる」とか「楽しい人生を送る」とか、そういう、人生の成功者側に行くHowToの本は多いですよね。

ハナシをこっちに絞ってみましょう。
もう少しひらめいたら、続けます。

  • 話題がクダラナすぎ

以前から、世の中の日常会話の内容の根拠はほぼ、「テレビでみたんだけど」に汚染されているという確信はあったのですが、それは間違っていないのですが、それだけではなかった。。
世の中の日常会話は、三本柱ですね。
ひとつは、その、テレビ関連。次は、ヒトのウワサ。もう一つは、「カレシカノジョ」「ダンナカミサン」のハナシです。

テレビの話題を延々と語られるのもイヤですが、他人の「カレシカノジョ」「ダンナカミサン」のハナシを聞かされるのも、相当苦痛ですよね。

「コドモ」のハナシは、いいのです。内容が許容できるので。

特に若い世代の、永遠にループするのではないかという恋愛相談的なハナシとか、色恋沙汰のプチ自慢とか。。
いや、最近はもうそういう「現場」から遠く離れているので、いいのですが。。
ムカシは相当苦痛でした。


昨今の人間関係というものが、集まってハナシをしてもすべてクダラナいハナシに収斂されてゆくのであれば、いっそのこと独りで思想にふけったほうがよいのではないでしょうか。
まずは独りになることですね。そこからまた新たなステージが始まりますので。

「世代間」の話

人生観、のような、思想の話

  • おカネを使わない、というハナシ(【重要】マーク)

おカネを使わない生活に到達することこそ、高度資本主義社会での「悟り」である、とまず規定してよいのではないか、と思いますね。
目標設定をそこにおけばよい。

ですが、この日本、しかも都心暮らしでおカネを使わない生活というのは不可能です。都心というのは高度資本主義社会がもっとも成熟しているところだからです。
さらに、難しいのは、おカネを使わない生活により「おおらかさ」(つまり「セコくないこと」)を失ってはならない、ということ。

セコいヒト、つまりケチは、その時点で資本主義社会に取り込まれているのです。カネの亡者と同類項で。

つまり、私が考える「おカネを使わない生活」というのは決して「貧乏」とイコールではないのです。

そういった「悟り」に行くためにはある程度の小金は必要なのです。
小金はありつつ、「質素な生活」を続けるというのが「悟り」。。
以前書いた「余裕の節約」というヤツですね。


支出を極限まで減らしつつ、収入を維持する。自然、おカネはたまりますね。
その時点でさらに、「たまには。。」を撲滅してゆく。
(「たまには。。」についてはこれ


「たまには。。」による発散(イコール、資本主義社会における「浪費」)を抑止することにより、ますます小金もドライブをかけて増えてゆきますね。


さて、その後にどういう方向に進むか、といえば。。
もちろん、小金というのはガメツク貯め込むのが目的ではないのです。かといってぱーっと浪費するためのものでもない。

これは、ヒトのために使うのです。自身が、極限まで支出を抑える生活を維持するのであれば、そして、貯め込まないというポリシーを持つのであれば、自然、他人のために使うことになりますね。


他人のため、というのは決して、世界だの、地球だのといった規模の他人ではないのです。家族、親類、老いた両親、コドモの教育費、といった方面に費やせばよいのです。
そしてもちろん、血がつながっていなくとも、近しいヒトたち。

世界だ、地球だ、といった方面には、自分の自己満足のために自分、つまり一個人が参入する必要は全くないのです。それは誰かに任せていればよろしい。

たとえば、世界中に恵まれないコドモたちがいるからといってアナタ、そして私が不自然に気に病む必要は、皆無なのです。
なぜなら、そのプロパガンダすら現代においては「仕掛け」なのですから。

「そっち方面」(これはものすごく、新興シューキョウ方面、エコ方面と類似性がありますね。。)にカネを使うのはドブに捨てるのと同じ。もしホントにそっち方面にカネを使いたいのであれば、直接その場所に飛び、そこの市場にガンガンカネを落としてくればよい。それでその国はわずかに潤います。
この国にとどまって他の国にカネを使っているつもりでも、そのカネはどこに流通してゆくかわかったものではありません。

ここでも「できる範囲で病」の蔓延を感じますね。。 「できる範囲で」をマスコミに強制されていることに、気づきましょう。
100円を寄付するのだったらその100円で孫にお菓子を買ってあげましょう。


ところで、よく知らない親戚すら無視してかまいません。この「よく知らない親戚」というのはとてもクセモノでして。。
なぜ、自分の近くに突然この「よく知らない親戚」が現われるか? を考えなければならないのですね。

ヘタをすると、その親戚が新興シューキョウなりネズミ講なりに取り込まれているかもしれないわけですから。自分の親戚だから大丈夫、などと甘い考えでいてはなりません。

近しくない「知り合い」も同様です。


ここまでの境地に達すれば、自然、「エコ」を気取っているヒトたちよりは、十二分に環境に配慮した生活をしています。
なぜならば、環境に配慮することはイコール、この地球上でなるべく「大人しくしていること」だからです。それは都心でいえば「おカネを使わないこと」に他ならないのです。

エゴイズムで「エコ」を気取っていても環境への配慮にはなりません。それはたとえれば、ペットボトルを分別回収するためにペットボトル飲料を買うようなものです。
その阿呆さ加減に、気づいていないヒトは多い。


なんだか。。 できたじゃないですか! 自分の「道筋」のようなものが。
なんだか相当重要なような気がしています。

再録・継続

  • 「生きる」(20070410)

「生きる」という、そもそもの、根本のことを、大変なこと「じゃない」と思ってるヒトが増えすぎなんだと思います。

コドモは特にそうなんですが、現代の日本においては、「苦労」は無用ですが、「負荷」は絶対に必要なのです。

負荷なき人生は怠惰となり、怠惰な人生は楽しいはずもなく、怠惰な人生を送るヒトのほぼ100%が、自分の人生を「楽しくない」と感じています。その怠惰、すなわち楽な立場に甘んじながら「楽しい」人生を求めるがゆえに永久にそれを実現することはできません。

「忙しくて忙しくて」といいながらいつも一服いれたり、ぼけっとテレビを見る時間があったり、ケータイメールずっと打ってたり、そういうヒトたちはそもそも信用ならないと考えています。それに対する反論はおよそふたつあって、人間、休息もいれなきゃ生きてゆけない、という系と、そういう行為も含めた「忙しい」だ、という系です。

もっといろんな反論を聞いてみたいという気持ちはあるのですが、どちらにしろ、誰にも平等に与えられている「時間」というものを効率的に使えてない、というのは間違いのないところでしょう。

まあそもそも、そういう「忙しくて」とかいうネガティブな言葉をあえて発している時点で、効率的な生活自体がムズかしいかもしれませんが。。