元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

もうホントサイアク 立ち位置の確認

本来の日記部分

先日、小銭入れを失くしたのですが(結局出てこなかった)今度は定期入れが見当たらないのです。。

今回はホントに、なんの予兆もなく。。

ホントにわからないのは以前も考えましたが、「なんでそうなるの?」とのこと。
「何か悪いことをしたか?」と。


さらに、ハラが立つのは、先日小銭入れを失くした反省として、小銭入れは無造作にポッケに入れてしまい落としてしまう可能性が高いからと、キャッシュカードなどを定期入れに移した矢先だったのです。

定期入れは無造作にポッケに入れたりはしないので。。
でも結果は同じでした。
でも今回は、定期入れは無造作にポッケに入れてはおらず、ウェストポーチにしまっておいたはずなのですが。。


とにかく面倒くさい。カードを止めるとか再発行とか。


そこから敷衍して、人生そのものが面倒くさい、と思ってしまい、ドツボでした。

確かに、何かの暗示なり警告なりだとは思うのですが。。

  • 体調

定期入れを落として精神的にどんよりとしてしまいました。ビール痛飲。

「世代間」の話

人生観、のような、思想の話

  • (【重要】マーク)立ち位置の確認

私は、常に真の意味で「個性的」であろうとしているわけですね。
これはもう、四半世紀ぐらい前からそうなので、動かせません。

そしてそれは、たとえば「いいオトナ」が、金髪にする、といったような方向性ではないことは、わかったのです。(クリア)なぜならば、実際そういう人物を見ていると不愉快に感じることがあるからです。(全員にそう感じているわけではなく、特に、言い訳とセットになっているヒトたちに対して)

で、次のキーワードは「超然」あるいは「飄々」であるというのは、確信としてあります。
現在、その境地に達するためにイイ線いっているという自負はあるのですが。。
なぜか「迫害」めいた事が身の回りに起こってくるわけです。

その迫害の根本にあるのは、相手の勝手な「嫉妬羨望」にある、と、断定しました。
断定したからにはもう、動かしません。
「迫害」めいたことをされるのであれば、闘います。

どうやって闘うか、といえば。。「哀れみをもって接する」ということです。
つまり、その嫉妬羨望から怒りの導火線につながってゆくあたりを刺激して、導火線に火をつけさすぐらいな対応をしてゆく、ということです。

だって、「哀れ」そのものではないですか? 嫉妬羨望の故に他人に攻撃をしかけるのは。


もちろん、嫉妬羨望の感情を持たずに接してくれるヒトに対しては、自分は人畜無害に徹します。
ヒトとヒトとの関係性などというものは「人畜無害」ぐらいで十二分です。

自分が、ライトな人間関係を志向しているのを見て、「傷つくのがコワいのか」と、見当ハズレなことをほざいている方が過去に数名いましたが、げにおそろしきやテレビドラマ、ということです。

そういうヒトたちは関係性の中で自分を発揮できずに消滅してゆきます。もう最初から余生としての人生を選択してしまっている。
「哀れ」ですね。。


脱線しましたが。。
でも、親類、家族などを含めた「近しいヒト」たちには、人畜無害でいるわけにはいきません。「頼れるヒト」でありたいと考えていますね。

こうありたいまたは反面教師

  • 資本主義の理論に操られているマリオネット

ゆるやかに続く。。
あまりに現代人が、表層的な「欲望」のみに行動をがんじがらめにされているから、そしてそれを客観的にみているとものすごく醜いから、そのアンチテーゼとして、日本人の99%が資本主義の理論に操られているマリオネットに成り下がっているのであれば、残1%のほうにいけば、それだけで絶対的に「個性的」であるわけです。

そこに食い込んでいけばよい。その方法論を考えていけばよいわけです。
そういう意味では、方向性だけは見えています。

あとは、たとえば今日の定期入れを落とすとか、そういう、自分にとって極めて理不尽だと思われるような事象を「うまく利用する」といいますか。。 そこで感じる「怒り」や「絶望感」をそちらの方向へ向かわす原動力にできないものか、といったところですね。

それと、私が大人しく生きているだけで、存在に嫉妬羨望を感じて「迫害」をしかけてくるヒトたちの邪悪な念も、何とか吸収して、パワーに変換したいのです。

自分について

  • 読書

これもゆるやかな続きですが。。
日本人が本を読まなくなった、とか言われると、生来天邪鬼なもので、途端にむさぼるように本を読みたくなりますね。
なぜなら、それにより「個性的」を実感できますからね。

実際、電車やバスに乗っていると、本を読んでいるオトナは激減しています。
そんな中で、ハードカバーの哲学書を開く「気概」もいいかな、と最近は考えてしまいますね。