元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

20070829「なぜミチクサをするのか、のハナシの新展開」
仏教観と重ね合わせて考えれば、自分はだいぶ前から、ミチクサの優位性についての対外的な説明を必死に考えてきたわけですが、それを考える必要すら実はないのだな、と。

「旅行」との比較においてミチクサ(あるいは「散歩」)の優位性を示す必要もまったくない。

ただ、歩いている。歩きたいから歩く。バスや電車に乗りたいから、乗る。その衝動にまかせる。

そして、その歩数がやがて「知」となって蓄積してゆく。「知」の蓄積が自分の中で実感されると、喜びを感じる。

それで、十分ではないか、と。たとえそれが、客観的評価にのせるための定量化ができなくとも。

歩くと何カロリー消費して身体によい、とか、なんだかんだで健康によいから、とか、そんな後付の理由も必要なく。

「あなたはなぜ歩くのか?」と問われたときに、何かカッコいいことを言いたかったのですね。

それに対する今の答えは、

「何が自分をミチクサに駆り立てているのか、その正体はわからない。自分のココロの中の奥の方の『何か』がそうさせている『らしい』というのはわかった。

その正体は、いずれわかるかもしれないし、わからないかもしれないが、それでよい。その正体をつきとめることは目的ではない。

でも、そのときその瞬間に自分がもっともやりたかったことが『ミチクサ』であって、そこに偽りはないという確信がある。だからやる。

だから、『なぜ?』の解は、『そのとき、自分を規定している無限に近い行動パターンの中でミチクサがいちばんやりたい、いや、やらねばならないと思ったから』ということになる。」