元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ディファレンシャル?

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ディファレンシャル?

歩いている途中で、何か良いフレーズなどを思いついたときに、それを書きとめておかないとすぐ忘れてしまうから、他の雑念をいれないように 「そーっと」歩くわけですが、それでもけっこう忘れてしまったりします。

ということは、「書きとめておかないと忘れる」という確信があるわけで、なぜ忘れるかというと、脳には絶えず、情報が入ってくるからです。

特に、歩いていたりすると景色は刻一刻と移り変わるのですから、もし脳みそが単なる「マシン」なのだとすれば、その「動画」をすべてキャプ チャしてため続けていることになります。

後から後から情報が入ってくるのであれば、はかない「フレーズの思いつき」などは、景色という「動画」の容量の前にはなすすべはありませ ん。


ところで、自分はディファレンシャル(? このコトバで正しいかどうかはわかりませんが、このコトバがぴったりのような気もしています)を 体感したいがために、ミチクサをしています。

毎日同じルートで行って帰ってくるのは、はっきりいって飽きます。

不思議ですね、毎日の日課、ルーティンワークは苦にしないのに。。 なぜ同じように行って帰ってくることが苦痛なのか。(これをもっと深く 考えるのは【重要】マークかも)

だから、たとえ1ブロックであっても、「ミチクサ」をして違う景色を見ます。それだけで「飽きる」は回避することができる。

それを、おそらく20年ぐらいは、意識してやっていますね。

と、いうことは、毎日ほぼ同じルートを通勤しているヒトは、その風景はほとんど「ディファレンシャル」ではないはずです。つまり、風景は脳 には「上書き保存」されるのですね。

上書き保存ということは、容量はほとんど増えない。

しかし自分は、意図的に、風景を「別名で保存」しているのです。ということは、毎日毎日別ファイルが増えて、容量は膨大になってゆきます ね。

仮に脳そがハードディスクなのだとすれば、あっという間にパンクするわけですが、幸いなことに20年以上続けていてもパンクはしていませ ん。(一時期、ヤバいなあと思ったことはありましたが。。 この日記をつけ始める直前)

古い「ファイル」で全くアクセスしなかったり(思い出さない、ということ)、新しくとも印象に残っていない風景、記憶などは、脳はどこか暗 黒の「闇」の中にぽいぽいと投げ捨ててくれます。

そしてそれは、パソコンのように「よろしいですか?」という確認は、ない。脳みそ独自の判断でやってしまっています。

だから、こちらの意識に反して、忘れては困る情報も脳みその判断で「投げ捨て」てしまってコマってしまうこともあるのですが。。

逆に、忘れたいことがずっと「闇」の中に投げ捨てられずに残っていたり。

でも、その脳の機能のおかげでおおよそ、助かってはいるのですね。


前にも書いたと思うのですが、ディファレンシャル、別名で保存している効果として何があるかというと、記憶の中の風景が「多重化」してゆく のです。ここがうまく説明できないのですが。。

単層ではなく多重化することにより、自分の中で「血となり肉となり」となっているような気がするのです。

これは自分のミチクサの根源のところだと思うので、もう少しゆっくり考えてみます。