元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

仏教、宗教について正面から 父親 「都心に住もう」

本来の日記部分

前にも書きましたが、ブラスト公論で出てきた「自意識の七転八倒」、これが最近の自分の座右の銘になっていますね。うっすら「宗教観」とも関連してくるキーワードではないでしょうか。

  • 体調

運動不足を実感していますね。。 これはマズいんじゃないか、と思うぐらい。
ありがちな話ですが、駅で階段上ってるとき、すぐに疲れるようになってきました。

あと笑えるのが、上腕の「力こぶ」のところの筋肉がぷにょぷにょになってきたような気が。。

体重は変化ありません。
それと、激しく「活動」はしているので歩き込んでいる自信はあるのですが。。
効果があらわれているのは下半身の筋肉だけでしょうか。

精神的な「何か」が片が付いて、仕事が軌道に乗ってきたら、運動を再開したいものです。
今は運動に「かまけている」時期ではないという考えがあるので。。

自分について

  • 父親はけっこう好きだった(ムカシ話)

父親が60歳前後だった頃、私がたまに帰省して、一緒に飲んだりしたときに、父親の口から出てくる地元の話というのはもう定型化されていて。。
同級生や下級生が役所で偉くなってる(だから、役所に行けばVIP待遇してもらえる)とか、銀行で部長やってる(だから、ひとこと言えばカネを貸してもらえる)とか。

で、当の本人はナニモノでもないただの「おっさん」なわけで。。
さらに、ホントに、役所にいったらVIP待遇されるのか? ホントに銀行にひとこといえば貸してもらえるのか? とか、そのへんも非常にアヤしいわけでして。。


でも自分は、その頃の「ナニモノでもない」父親はけっこうキライじゃなかったですね。
その虚勢の張り方も含めて。

それ以前はずっと、反発するものがありましたが。


ちなみにもちろん、父親はばりばり健在です。

再録・継続

「都心に住もう」という特集です。

この雑誌は、「ワンランク上の生活」を志向しすぎて鼻につくことがありますが。。

しかも、特集ページが少なすぎです。また、表紙かどこかに「石原都知事インタビュー」と書かれているのに、都知事のコメントがちらっとしか載っていない。誇張表現です。

ですが、

「実は、都心部の方が緑が豊かだったりする。かつて都市は環境が悪いと、わざわざ郊外に一戸建てを建てた団塊世代とは違い、現代のクリエイティブクラスたちは、我先にと都心部に住み始めている。なぜなら地価や賃料は割高だが、それを補って余りある恩恵を享受できるからだ。」

というのはagreeですね。「クリエイティブクラス」というのは何ぞや?と論戦を吹っかけたくなりますが。。ビジネスマンは蚊帳の外か?とか。。

エスクァイアは青山から発信していることを謳い文句にしていますが、編集部の所在地は青山の一番端っこですからね。。とりあえず住所に青山とついておけばそれでよい、みたいな引っかかり方で、流行からは「程遠い」とまではいきませんが少なくとも発信基地ではありません。「宣伝会議」とかだったらばりばり青山の中心なので「青山から発信している」といえそうですが。。

この雑誌のいう「クリエイティブクラス」の浮世離れした都心ライフを紹介していましたが、私の生活を紹介したほうがよりリアルに、都心に暮らす中産階級の生活が浮き彫りになると思いますけどね。。今後、「都心で暮らす」的なテーマの雑誌の特集はぽつぽつと組まれるでしょうから、売り込みしたいものです。

家賃月30万以上払える人たちの生活を追っても仕方ないでしょう、一般の雑誌で。まあ私のリアル都心生活を描いても、都心ライフを夢見る人たちは幻滅するだけでしょうが。。

なぜ、現代人はいろいろなしがらみ等から解放されつつあるのに、通勤ラッシュが「苦痛だ!」と正面きって言わないのでしょうか。約10年かけてじわじわと都心回帰の動きが広がってきましたが、もうすぐ雪崩のように都心に人口が流入してくるかもしれません。ひとこと言い訳してほしいですよね。「やっぱ通勤ラッシュはダメだわ」と。単に地価が高いだけじゃなくて、いろいろな理由をつけて「都心」を否定していた人たちでしょう。「都心は暮らすところじゃない」と。ということは、通勤ラッシュの苦痛を補ってあまりある、バラ色の生活が郊外にはあったはずでしょう。それが戻ってくる、というのは、イマイチ納得はしていませんが。家の選択までも流行に左右されるのか、と思ってしまいますね。
(再録おわり)

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 仏教、宗教について正面から

今年ももう半ばですが、自分のテーマとして急激に浮上してきたのがこれです。「仏教、宗教について正面から向き合おう」と。。

宗教についてテレながら書いていたこともありました。
(以下、再録)

般若心経についてのインタビューを興味深く読みました。

今の自分にとってはなかなか良い示唆が含まれていたように思います。

読んで考えたことがふたつ。。

まず、「自我を滅すれば幸せになれる」というのは自明のことであり、いずれ到達するであろう結論だということはわかっています。

自分は(多分他の方々も)、自我を滅せずとも「ある程度」幸せになれる方法をずっと考えているのだと思います。

「自我を滅する」という状況について、今のところはまだ「出家」とか、「山奥で仙人になる」といったようなイメージしか持てないのです。

次に、「祈る」についてですが、

祈りたいという気持ちは、「何に対して」祈るかというのはおそらく枝葉末節の話であって、祈りたくなる気持ちは大切にしたいものである、という気持ちを新たにしました。

極限状態などに陥ったときに、何か「超越した存在」に祈るというのはごく自然です。それを否定するのはそういう状態に陥ったことがない方々でしょう。

自分の器ではいかんともしない状況では、「自分を信頼する」だけでは、ちっぽけな自分は全くこころもとない存在なのです。

宗教観、といったような話になってくるのでしょうか。。 今はここから話が進みません。

ただ、「宗教」という言葉がうさんくさいのであって「信仰」についてはもっとオープンに話しがなされてもよいのではないかと思います。

「いかにして魂を豊かにするか」
「今は魂の時代です。魂について学び、魂を豊かにすることを考え、実行しなくてはなりません。私には弟子が十人います。私はこの十人に会社を経営する方法を教えました。でも、それは方法論ではありません。いかにして魂を豊かにするかということです。」

(略)「斎藤一人さんは「成功は楽しむことから出発する」とおっしゃっています。会社の経営に関しても、ノウハウやテクニックではなく、重要なことはその人の魂レベルを磨くことだと言います。そして、魂を磨き、人間性が高まることで、自然に会社経営もうまくいくようになるのだそうです。(略)」
(抜粋・紹介おわり)

この、「魂を磨く」というのは良い表現だな、と思いました。「魂」ということでどうもウサンくさい宗教方面に話がいってしまいそうですが。。 そこで踏みとどまれれば、この「魂」というのは自分が常々思っているコトをひとことで言い表しているキーワードではないか、と思うのです。抽象的でありつつも「心」とか「精神」というキーワードよりはもっと具体性がありそう、というか。

(再録おわり)

まず、自分の基本スタンス、立ち位置としては、「仏教、宗教の類は本来『逃げ』ではない」ということです。

宗教とは純粋な意味での「悟り」であり、事象に対する論理的説明へのトライをとことんまで突き詰めてゆくと、逆に直観のほうへ戻ってゆく。

最初から直観ゼッタイ主義では、ダメなのです。


ビンボーなヒト(はっきり言っておきます)が逃げ込む「依存の宗教」だと、「引きずり込み」スタイルになります。
少なくともそんなヒトたちと一緒に群れたくはありませんね。


身の回りの諸問題を、個人でなんとかできる人間のために、「高みへ行く」ための宗教、「悟り」があってもよいはずです。いや、「あってもよい」ではなく、本来宗教とはそうあるべきです。


新興の宗教で、欲望を全肯定したりしていますが、あれは明らかにおかしい。間違っているというよりは、前時代的なのです。時代がビンボーだった頃をそのまま引きずっている。現代の「トレンド」ではないのです。


豊かな社会を自認するのであれば、間違いなく「トレンド」は、欲望の肯定ではなく、禁欲の方向に向かうべきなのです。


だから、私見ですが、現代社会にはますます「禅」が似合うと思います。


現代社会において物欲に完全に取り込まれてしまって、いつまで経っても無限に自力で欲望を収束させることができなくなってしまっているヒトたちは、近い将来、「負け犬」になってきます。
負け犬とはすなわち、先ほど書いた、「依存の宗教」にハマり込む可能性がキワめて高いヒトです。


「おいしいものをハラいっぱい食べたい!」「広い家に住みたい!」などなどの欲望を全肯定してくれるから新興宗教に入信した戦後のビンボー人と、今、豊かになりすぎた社会で欲望をコントロールできなくなっているヒトたち(特に、昨今の偽「個性化教育」を受けた若者に多い)は同類、同じレベルに位置づけられます。

それこそ、昨今カウンセリングだのセラピーといった「ソフトタッチ」の洗脳にハマりまくっているヒトたちです。たまたまそれは「宗教」というコトバを使っていないだけです。


禁欲、節制というのは、自分は悪戦苦闘しながら実践中ですが、ぜひトレンドになってほしいものです。

それがトレンドとなり、先ほど書いた、欲望を全肯定する一大勢力(「資本主義の魔の手」とでも呼んでみましょう)と拮抗してゆかなければ、世の中はホントにおかしくなってゆくに違いない、という確信があります。

特に、昨今偽「個性化教育」を受けた若者が大量に社会に放たれ、「欲望の全肯定」がますます世の中を侵食しつつあります。
ここで踏みとどまらないと。。 と思ってしまいますね。


もちろん、私も聖人君子ではありません。
私も欲望を全肯定してみたいとは思います。成金が陥りがちな、典型的なカネ持ちの所業を、自分もやってみたいと思う。

でも、近い将来、それがホントウにカッコ悪いというトレンドになってくれば、私含めて世の中のヒトは皆、そういうことをやる気が失せてくるのでしょう。

戦後から、今まで、まだまだ、永ちゃん的成り上がりスタイルは、「カッコいい」ものとして受け継がれています。これは非常に、強固です。


でも、欲望を全て肯定するあまり、欲望に永遠に翻弄される無限地獄に陥った時点で「負け犬」になるという「気づき」をもう持ってしまいましたので。。
(そういう醜いヒトを何人か見ました)

自分がそっち方面に逆走することはもうないだろうな、と、うっすら確信はもっています。


話を戻すと。。たとえば、実現不可能な壮大な夢を勝手に描いたりして(最近の「教育」ではおおっぴらにそれを表明することが許されるので)、身の程をわきまえないがために身の丈に合わない欲望を持ち続けてストレスをため、自分で自分のクビを絞め続けているヒトがたくさんいます。

欲望を肯定されているがために、それに従っている自分が悪いとはこれっぽっちも許せず、世の中が自分に「歩み寄って」こないのが悪い、と的外れな八つ当たりをして。。


次に、現代社会は基本、「楽」であって、ぼーっとしていれば、楽にプラスしてさらに「楽しい」ことが降ってくるはず、とまったく疑いもなく信じきっているヒト(「層」)がたくさんいます。

自分のところには、「勝手に」降ってくると思っている。たとえば、降ってくるための努力(「雨乞い」のようなもの)すらしない。これは、偽選民意識ですね。


こういうヒトたちから「負け犬」臭がぷんぷんとするのです。
つまり、もう終わっている。そのままの「姿勢」で生きたとしたらもうゼッタイにリカバリはない。だから若い時点でもう「負け犬」当確なのです。


この負のスパイラルから脱する、効果的な手段は、「ストレスコントロール」なのですが。。
それは、偽選民意識を刷り込まれて、受け身で過ごしているヒトたちには非常に難しい所業なのでしょう。

言うのはカンタンですが、自分がなぜ、ストレスがたまっているのか、の原因を、自分の中から探り、それをプライドをかなぐり捨てて除去していかなければならない。
それよりもまず、自分がストレスがたまっているということを認識しなければならない。

この自助努力を期待できそうにないから「負け犬」なわけでして、その「気づき」すら「誰か私にインスピレーションを与えなさい」と潜在的に考えていますから。


今の時代、何がキビしいかといえば、「ムカシの宗教」のように受け身で(ハンパに)祈ったところで何も報われないのです。
そうすると、自分に非がある場合にも、祈る対象に責任を押し付けたりします。。「こんなに祈っているのに!」と。祈るだけで何も行動していないという自分の非からは目を背けています。


「こんなにガンバっているのに。。」といつも思っていて、でもまったく成果が上がらず、そこで思考停止してしまって「なぜガンバっても成果が上がらないのか?」という客観視までたどりつけない最近多いビジネスマンの典型と、似たような話になってきますね。。


現代社会をストレス少なく行きぬくには、常に動きながら、変わり続けながら、さらに禁欲、節制して、さらに祈る、という、高度な合わせ技が必要だと思います。(【重要】マーク)

動き続け、変わり続けることができるだけが報われる、という意味では、明確な「格差社会」になってゆきますね。でも、それでいいではないですか。行動を起こす人だけが報われてほしいです。
そこには、インテリジェンスも必要になってきます。「どのように」行動すれば自分にとってもっとも効率的か、豊かに生きれるか、ストレスが少ないか、を常に考え続けなければならないからです。
でもそれは、とても楽しい、スリル満点の知的作業ではないですか。

前にも書きましたが、(これはmy格言であり、我ながら良いフレーズだと思っていますが)、「変わり続けながら変わらないものを見つけることは可能」なのです。


どんなときでも思考停止してはならない。


いやはや、ちょっと長くなりすぎました。。 一旦切りましょう。