元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

死と宗教観 物理的負荷の無視 無礼なタクシー運転手

本来の日記部分

昨日の日記は今までで一番長かったのではないでしょうか。

自分の考え、「観」といったものが、「宗教」に絡めると表現しやすいようです。

やはり、真の意味での「宗教」というものをタブー視してはいけませんね。

「風俗」と「フーゾク」との関係のように、今、話を切り出すだけでタブーになっているのは「シューキョウ」と表記すべきです。


私が「活動」することで追っているのは街の「風俗」ですから。。
でもそれを他人に語ったとしたら、変人どころかヘンタイ扱いされてしまいます。

トルコ人が、自分の国名が、そういう産業の固有名詞に使われていたことに対して憤怒した、というのもわかります。

そういえば、気付かぬ間にこの日記も2年目に突入です。



再録・継続

  • 頑張るのがなぜ悪いか?(20070226)

最近、人と話をしていたり、テレビをザッピングしていたりして、自分の違和感アンテナにばんばん引っかかってくることがあります。

それは、「ムリして頑張ってしまう人」の存在です。頑張ってしまうが故にコワれてしまう、みたいな。。

そして、そういう人たちを引き合いにだして、「頑張らなくてもいいんだよ」とさとす人たち。

完全に間違ってますよね。このからくりに引っかかる人がたくさんいるから、仕事でも生産性が上がってゆかなかったりするのです。主婦も「ああ、頑張らなくてもいいのか」と自分の仕事である家事をなおざりにしてゆきます。「頑張らなくてもいいんだよ」というのはもっとも都合の良い言い訳です。

まず、「頑張って何が悪いの?」ということです。頑張ってムリしてしまって身体をコワしてしまったり精神的に支障をきたしたり、そこまでイってしまったことに対する賞賛はないのか?と。適当に生きているより100万倍良いではないですか。

頑張ってしまって「ぽきっ」と折れたようになってしまうと大変だから、といって「頑張らなくともよい」という言い訳にはならないでしょう。そこが、短絡的なのです。

頑張るというのは、折れそうになるということですよ。折れてしまわないように努力量を調整するのは確かに自己責任ですが、折れてしまう可能性を秘めるところまで自分を追い込むのが「頑張る」ということでしょう。

「頑張らなくともよい」という人は何故ゆえに努力を悪であるという考えを世間に植えつけたいのでしょう。ホントに頑張らなくなった人の人生の責任をとってくれるわけでもなし。。

ムリして頑張っている人は、それを止めてほしいのでしょうか? この話は、止めてほしいに違いない、という前提で進んでいますが、頑張っている人の中には、それで満足している、止める必要もない人もいます。頑張っている人全体を、「頑張らなくともよい」と否定しなくともよいではないですか。

この日記には何度も書いていますが、頑張らなくともいいんだよ、という言説になびく側の人たちは、高い確率で、生活に不満足感を抱えて生きています。当たり前なんですよ、頑張ってないんだから。そういう人種は頑張っている人を引きずりおろしたくて仕方ないのでしょう。
(再録おわり)

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 物理的負荷を無視する世の中

というお題で、mixiのほうにばーっと書き連ねていたのですが、どうも引っかかっている。。

無形のモノで言いがかりをつけられたらもう、キリがない、ということです。
たとえば、仕事をして結果を出しており、結果の裏づけとして定量的な数値をはじき出されている、という状況で、「でも、態度が悪い。。」と冷や水を浴びせかける輩がいます。
それどころか、その、定量的でない、無形の評価により、成果を上げている(証拠も出ている)にも関わらず、「評価」(つまり、カネです)が据え置きになってしまうという。。

これはもう、揚げ足取り以外の何者でもないのではないか、と。

おそらく、仕事できるヒトのその「態度」という漠然としたものは、そのヒトの性格に多分に依存するものだから、もう変わらないと思われます。

そして、そのヒトが、めきめきと仕事で頭角をあらわすまで、そのヒトは「態度」については何もいわれなかったはずです。「出る杭」になってくると、そういう無形のところであらぬ批判をうけることになる。

ビジネスではもっとも必要とされるものは「結果」です。それを出しているにも関わらず、もっとも必要でないところで揚げ足を取られる。
なぜ揚げ足を取られるかといえば、その結果に対して、いや、その結果を出しているヒトにたいする嫉妬羨望が渦巻くからです。

マネージメント層は、その、成果も出さずに揚げ足を取る層を、駆逐してゆくのがミッションのはずです。
そうしなければ、成果を出せる人間が、バカらしくなってどんどん辞めてゆきます。

それでも、組織の「和」を重視して「悪玉」を駆逐できない企業は、傾いてゆきますよ。特に、中小は。
大企業は、いいのです。「悪玉」は織り込み済で動いていますから。


なんだか、会社シリーズになってきた。。

成果を褒め称えるよりも、成果のまわりにあるたくさんのネガティブポイントを見つけて、批判するほうが容易いのです。

この話は、少し前に必死で書き出していた「バカらしい話」につながってゆくんですね。。


「態度」とやらを犠牲にして、この資本主義社会で成果を上げ続けているヒトたちが、成果と比例してやってくる嫉妬羨望からくる仕打ちを受け続けてゆくうちに、その仕事自体を「バカらしい」と感じてしまう。

かくして有能な人材がその組織から流出してゆき、「悪玉」だけが残る。「悪玉」はいつまでたっても有能になることはない。

あるいは、その有能な人材が流出しないまでも、一旦その組織にとどまることが「バカらしい」と感じてしまったらもう以前のパフォーマンスは出ません。
なぜなら、「邁進」するためのモチベーションをすでに失っているからです。


さらに大きな話をすれば、
この、嫉妬羨望による「足の引っ張り」(注:足の「引っ張り合い」ではありません。有能でない人間が有能な人間を、一方的に足を引っ張るだけです)をいかに「政府」レベルで抑制するか、が今後の日本が「豊か」になれるかどうかにかかってくるのです。


ところで、嫉妬羨望による「足の引っ張り」に対して、有能なヒトは、何をしたってムダなのです。
そういう組織から離れるしかない。まァ別な組織に行ったところで同じようなヒトはいますけど。。

有能なヒトには、そういう嫉妬羨望の勢力に負けてほしくない、とココロから思うのです。何も支援はできないのですが。。
とにかく、「邁進」をやめてほしくないのです。
有能な人材が、どんどん「バカらしい」と感じ、「邁進」をやめていくから今の日本の衰退、精神的荒廃という現実があるわけで。


逆に、ますます馬力を上げて、「邁進」を嫉妬羨望勢力に対して見せつけることにより、グウの音も出ないようにさせてやる、と頑張るヒトもいますが、それは時間と労力の完全なるムダなので、やめましょう。疲れるだけですから。
揚げ足取りは、無限です。カンペキな存在でない限り、揚げ足を取るポイントはいくらでも出てきます。
ヒトは、カンペキにはなれないものです。


有能なヒトには強くあってほしい。そして、次の世代のコドモたちに「嫉妬羨望の勢力を振り払うにはどうしたらよいか」の見本を見せてほしい。
そうすれば、その子らが嫉妬羨望勢力に成り下がることはないでしょう。(と、信じたい。)

自分について

  • あらためて死と向き合う

「死」というものが間近にまで近づいてくることを体験したヒトの気持ちは、それを体験したことのない人間にはゼッタイにわかりません。
ここに「諦観」が発生します。


なぜならば、「アナタも、死を間近で見てくればいい そうすれば私の気持ちがわかるから」とは、言えないでしょう。


自分は人生のある時期、「死」というものがぐっと身近になった(ぐっと「引き寄せた」??)ことがあります。
あの経験は何とかして活かさなければ、とは思いますが、それを押し付けがましく他人に伝道するわけにもいきません。(その気もありません)


ですが、「諦観」から発する、自分のモノの考え方が、どうやら、あるラインを境に健常な他人には受け入れがたいものらしい、ということは、最近わかってきました。
いや、わかってきたというよりは、その事実をムカシから薄々感じてはいたのですが、だいぶ受け入れられるようになってきました。

それもこうやって、日記で諸々の雑念を書き出しているおかげだと思います。


私は、自立しているけれども迷いがある、というタイプのヒトに対しては、おそらく良き話相手になってあげられる、という自負があります。

ですが、最初から依存しようと接近してくるヒトには疎まれます。なぜなら、根底にあるのは「自分でやれば?」ですから。。

「まず自分でやる」などという当たり前のことは軽々と越えてきて、かつもっと大きな、自分の力ではどうしようもないモノの存在に気付いてしまった、とか、そういう感じの。。


そういうヒトの話相手になってあげられるだけで、それを解決してあげることができる、というわけではありません。あくまで解決してゆくのは自分です。


「まず自分でやる」という考えをデフォルトで持っていないヒト、「協力」という大義名分の下に、自立した人間に対して依存攻撃を仕掛けてくるヒトとは、話したくもないというのが正直なところです。
最近そういうヒトが多いので。。


その理由、なぜ、そういう「自立したヒト」の話相手になってあげられるという自信があるのだろうか、と考えたときに出た答えが「ああ、自分は『死』を間近で見たからだ」ということでした。
しかも、けっこう若くして。

ただ、なぜ「死」を間近で体験したヒトは、良き話相手になれるのか、と問われると。。 ちょっと今は、わかりません。
腹が据わるから、という抽象的なことではないような気がしています。


ところで、新興宗教もそうですね。良き話相手になってくれる仲間がたくさんいる(らしい)。
でもそれは、何か違う。傷を舐めあっているだけのような気がしますね。

そして無限に傷を舐めあう相手を増やしていきたいという欲望が生まれる。。それがなぜなのか、も、ちょっとわかりません。

以前も書いたかもしれませんが、欲望を全肯定してくれる存在に対して、「依存体質」のヒトほどふらふらと接近してゆきたくなるようです。


新興宗教は基本的に誰でも入信できて、その後、金さえ積めばどんどん位も上がって、かりそめの解脱ができるようになっている。

その仕組みは、客観的にみると、資本主義社会そのものです。(【重要】マーク)
そこに真の「悟り」はありません。あるはずがありません。

ですが彼らのシステムの中では、「悟り」はカネで買えることになっている。ここに教義の根本的な矛盾がある。宗教が資本主義社会に取り込まれすぎているのです。


でもそれは、間違ってはいるのですが、外れてはいない、というか。。
悟るためにはカネという触媒が必要である、という事実は間違っていません。新興宗教はそこからの展開が間違っているだけで。。

ビンボーな段階で「逃げ」の意味での宗教にハマるのではなく、ビンボーな段階では「逃げ」をせずにせっせとカネをためましょう、と。カネがたまったときには「逃げ」の宗教に興味がなくなっているはずなのです。

ビンボーな段階で逃げの宗教に入信して、入信してからカネをかき集めてカネ持ちになってしまうと、「逃げ」の気持ちを持ったまま、お金はすべてその宗教に吸い取られてしまって。。
いつまで経っても高みにいけないわけです。

「高いところ」で宗教に接するためにおカネが必要、ということになりますね。


そもそも「高いところ」に行くために必要な「節制」とか「禁欲」という考え方は、ビンボー人には全く意味をなさない概念であり。。
ある程度のおカネがなければ節制や禁欲すらできないのです。ある程度の豊かな生活まで上っていかないと、「節制」や「禁欲」の概念すら発生しません。

だから、まずそこまで自力で到達しないと、欲望を全肯定する新興宗教にハマってしまうのです。


たまたま「新興宗教」をとりあげましたが、私が考えるこのコトバには、「スピリチュアルなんとか」も含まれます。宗教法人か否かは関係ありません。「逃げ」の意識を持った、依存体質のヒトたちのココロのスキマを狙った「産業」すべてがあてはまります。