元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

生活偏差値60

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 反面教師:状況が変わるのをどこまでも待つ。自分が変わらないままに状況が変わらないとグチを言う。(20080416)

人生観、のような、思想の話

  • 生活偏差値

生活偏差値を、学校時代の偏差値とあわせたい、ということを以前書いたのです。(メルマガバックナンバーの初期、このへんから)
自分は、高校を出るまで偏差値は60ぐらいでした。ということは、あの「受験戦争」の最中、自分は上位15%ぐらいに位置していたにもかかわらず、誰もほめてくれなかったなあ、と、以前はグチりましたね。

そのときから1年半(?)あまり過ぎ、自分の考え方も若干変わってきたのかもしれません。
果たしてその「生活偏差値:60」というのはどういう状態なのか? の定義のハナシ。

誰もが得意・不得意科目があるように、僕も五教科それぞれの偏差値はでこぼこで、総合点で偏差値60ということでした。

先日考えたのは、まず、自分は年収は偏差値60には到底達していない(!)。それを、「住環境」つまり都心に住んでいるということでカバーしている。
カバーしているというのはつまり、それにより精神的充足感、満足感を得ている。

住むロケーションが都心というのは、この「科目」のみであれば偏差値70ぐらいではありませんか? なぜならここは日本の中心なのですから。

偏差値というのは客観評価です。住環境、住むロケーションを重要視するヒトも、そうでないヒトもいます。そんなことは重々承知しています。で、客観評価として、この国では、都心に住むというのは相対評価としては、高いはず。

なぜなら、この国では「ステイタス」というのは絶対的に存在しているのです。そこから目をそむけるわけにはいかない。
だから僕は、「外車に乗って家は四畳半」よろしく、都心生活をしながら質素な生活を継続しています。(間取りも広くないですし)それに対して、ステイタスを得るためにそうしてるのだろう、と揶揄される分には別に構いません。ホントウは違いますが、そういう指摘には慣れています。(都心に移住して長いので)
現代ではそういう、いわゆる「不釣合い」なことが、ある程度許されるようになってきています。


そういう外面的なことではない、「ココロの豊かさ」を尺度にすべきだ、とか、おっしゃるヒトたちがいるのでしょう。
偏差値教育の是非を問うときも、それと類似したようなことをのたまうヒトたちはたくさんいました。

偏差値とはそもそも外面を定量化するものなのです。そして、「庶民」はそういう外面を定量化する明確な尺度を、(なぜか)常にほしがっている。(ほしがってるにもかかわらず、批判する)

そうでなければ、「どこに住むか」「どの都市が住みやすいか」などというランク付けが雑誌でなされる必要もないのです。自分の住みたいところに本来ランク、格付けなどないはずです。

あいも変わらず、住環境(どこに、どのような家に、どのような広さに)とクルマ、年収は、非常にわかりやすい尺度であり続けています。
そして最近は。。「メディア露出度」でしょうか。これも別途書いた記憶がありますが、「芸能」という領域自体のステイタスが、おそらくその周辺のヒトたちの血のにじむような努力により、じわじわと上がってきており、結果、今ステイタスのNO.1ぐらいにきています。

でもそれは、当然なのです。なぜならそこには「一攫千金」がある(ありそう?)だから。
この高度資本主義社会では、わかりやすい「一攫千金」にはヒトがどんどん群がる。
さらにそれ(芸能)は、ふたムカシ前までは、庶民のサクセスストーリーのひとつの手法としてあったはずが、日本全体が総中流化して以来、だれもがそこに群がるようになってしまった。
「芸能」に対するいかがわしさが、巧妙に消し去られてきているからです。大卒でもカンタンにこの博打の世界に飛び込むようになってきている。

それでよいのか? というハナシではなくて、そういう事実になってきている、という確認です。


。。またハナシがそれてしまった。。

博打に近い一攫千金を、高学歴が狙ってゆく(自由を得た)のは良いことなのか、悪いことなのか。。
また次回(眠くないとき)書ければ書きます。