元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

旅行VS散歩

本来の日記部分

  • 仕事

サイドビジネス(?)対応に追われる
本業そっちのけです。

仕事上で仲良くなった方の個人宅に電話したら、お子さんはいないはずなのに小さいお子さんが電話口に出て、話しをしたのですが、会話に要領を得なかったです。

再録・継続

  • 旅行VS散歩(20070215)

(略)
結局自分は「旅行」というものに対して相当な敵対心を持っているようです。それは、「散歩者」の矜持として、だと考えます。

趣味、という観点で考えると、「旅行」のほうが「散歩」よりはわかりやすいようです。ですがわかりやすいからといってレベルが上ということはないでしょう。

日陰者である(?)「散歩者」の地位向上、というのが自分のミッションなんでしょうね。(【重要】マーク)


自分は、生活から「散歩」(これを「活動」と呼んでいますが)がなくなったら、と考えると「生きてゆけない」に近いものがあります。ですが、散歩はカンタンなので、頻度高くできます。極端にいえば、家から一歩外にでればいいのです。散歩という行為が自分の生活からなくなるということは、現在は(健康を害さなければ)あり得ません

ですので、今は精神の均衡を保つことができています。

自分と同じような感じで、「旅行」に代表される別な趣味がなければ「生きてゆけない」に近い人たちを知っていますし、それを否定するものではありません。そういうものはあっていいし、素晴らしいものです。

ですが、似たようなことを何度でも書きますが、

なかなか頻繁にできないことを趣味にしている人は、ストレスがたまります。ガス抜きもできません。私は、「散歩」というカンタンにできることを「趣味」と位置づけているので、ストレスがたまりません。

それだけではないですか。カンタンにできることを趣味にすればよいではないですか。なかなか頻繁にできない「趣味」のほうが高尚ですか? 他人受けがよいのですか?

その「○○をやらなければ生きてゆけない」という「○○」(パラメータ)は取替え可能なんですよ。つまり、生来のものではないということです。それをわかっていない人が多すぎます。

「○○をやらなければ生きてゆけない」(恋愛でいえば「あなたがいなければ生きてゆけない!」状態)というのは、ほとんどの場合トレンドに左右されるものです。なぜならば、ほとんどの「○○」は、レイヤが上の趣味、嗜好品の類に該当するものだからです。

「空気がなければ生きてゆけない」なんて、ため息つきながら人に言わないでしょう。


自分は、考えに考え抜いた結果として、「通勤ラッシュを毎日続けていたら『生きてゆけない』」というのと「(都心の)散歩は自分のライフワークとなりうる」(生きてゆけない、に近い)というふたつの、自分の内なる思いを感じ取って、借金こさえてまで都心に越してきたわけです。

これは、ホンキなんです。生半可なキモチではないのです。

だから常に快適に近い心持でいられます。イヤなことがあっても、都心に住んでいる(すぐ散歩に出れる、通勤ラッシュがない)ということでリセットできます。特に、30代を過ぎてからはいろいろな「無礼な人たち」からのイヤな攻撃を受けることが多々あるので、なおさらです。

これは、自分が起こしたアクションの結果として得た「青果物」です。所与のものではなくて「取りにいった」ものなんですよ。

年に1回、あるいは数年に1回しか旅行に行けない、だからストレスがたまる、生活がつまらない、なんていうグチは各自の勝手ですが、自分はその場で(あるいは、近所で)ガス抜きを出来る場所に意図的に毎日暮らしています。

それに対して嫉妬羨望のキモチをもたないでほしいんですよね。いや、持ってもかまいませんが、ほおっておいてください。そのキモチは自分が変わらないとどうにもなりませんよ。旅行が好きなのであれば月に一度の小旅行を繰り返せばいいじゃないですか。それがイヤなら旅行という趣味自体を替えればいいじゃないですか。どうせ人は趣味すらもトレンドに流されるのだから。。


でも自分は旅が趣味だった時期もあったのですよ。。 いつの間にか面倒になってしまって。でも、スキーに行かなくなった人たちも「面倒になって」というのは同じでしょう。

(再録おわり)