「残らないものにお金を使う」こと 仕事でストレス
本来の日記部分
- 体調
体調は絶好調のはずなのですが、仕事のストレスの悪影響が、自覚症状がないまま少しずつ蓄積されているはずなので要注意です。
- 仕事
相当なストレスがあり、現場を出たとたんコンビニでビール。そのまま「活動」へ
まずヤバいのは、「やりたくないことをやらされている」という確固たる思いが熟成されてしまっているということ。
自分のためだから頑張ろうとか、そういう思い込みの時期はとうに過ぎています。
どう考えても、自分の今の現場での立ち位置はおかしいのです。許容の範囲を超えている。
そして、自分は相当に許容範囲の広い人間であるという自負があります。
次に、とある「ヤバいヒト」と会話するだけでハラが立つ、ということ。このヒトとは、1日1回以上はゼッタイに仕事で絡む。
そのたびに、コトバじりとかで少しずつ怒りがこみ上げてきます。
もう、会話するだけでダメなんですね、今は。
長所をみつけてあげよう、とか、そういう時期はとうに過ぎています。
また、こちらも十分誠意は見せましたが。。 ダメでしたね。
再録・継続
- 「残らないものにお金を使う」こと(20070119)
が、好きなんですよね。残らないものとは、食事とか。。
以前は嗜好品も入っていたのですが、最近は嗜好品とは縁が切れつつあり、良い傾向です。
おいしい食事をするのも、旅行と同じで「経験」を買うに近いのではないでしょうか。
旅行で別な空間に飛ぶのも、都心の中の「隠れ家」に潜むのも、異空間という点では同じではないかと。
人におごるのも嫌いじゃないのです。大好きというわけでもないけど。。
おごるという行為も「残らない」ですよね。でも、もしかしたらその行為をすることにより相手にとって良い経験を提供できたかもしれない。
そしてあわよくば自分に対して好印象をもってくれたかもしれない。あまりそこまでは考えませんが。。ゼロではありません。
人にプレゼント(モノ)を買うのが嫌いなのです。同じ「施し」なのに何が違うのでしょう。その「モノ」が相手の生活の中で生き続けるのがイヤなのか? そんなことは別にないと思いますが。。
完全に矛盾する考え方として、自分は、時計や靴を集めるのが好きです。(安物)時計や靴については「数」がほしいと常に願っている。
これらは完全に「残るもの」ですが。。
生活に直結するモノであれば、良いのでしょうか。自分にとって時計や靴はぜいたく品ではなく生活の一部で、飾っておくのではなくてローテーションして使ってゆくものです。
自分は時計や靴は好きですが、壊れたりしたら捨てます。なぜなら、ローテーションから外れる(使わないものになる)からです。
生活必需品やそれに近いものであれば、ふんだんに身の回りにあってほしい、ということですね。ということは自分の部屋、家がムダなものたちではなく「必需品」に覆われていればよいのですね、自分は。
絵画や、家に飾っておいて目を楽しませるためのモノ、一見ムダなものたち(と私は考えてしまいますが。。)を集めるのと、自分がお金を使う「残らないもの」とは、趣味という点で共通している、ということです。
(再録おわり)