元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

訓練3

最初の論(一昨日)に戻れば、人生の後半戦イコール応用問題、ではないのです。
決してそうではないのだ、ということに、35歳すぎぐらいに気づいてホントによかったと。
そのまま気づかなかったらと思うとゾッとする。

今のほうが、人生においていわゆる「やらされ感」がないです。
意識的に自分に対してドリルと基礎問題を設定できます。自分に対する負荷も自由自在に調整できる(はず)。

35歳ぐらいの飲んだくれのままだったら、僕はまったく、自身にドリルや基礎問題を強いていなかった。
と考えれば「ゾッとする」どころの話ではない。なぜなら、そんな状態で僕は応用問題に立ち向かっていたからです。そのまま(精神的に)死んでし まっていたかもしれない。
今、この時期に、20代後半〜35歳ぐらいまでに僕にイヤというほどふってきていた応用問題(当時の)が同じようにふってきたとしても、今の僕に とってはへでもないのでしょう。それほどにドリルと基礎の積み上げは大事。


1日1日が、基礎のくり返し。そして、今日よりも明日、明日よりもあさってのほうが、同じ問題を解いているにしても「精度」が上がってくる。そし て、やがて人間性が陶冶され、人間が完成に近づいてゆく。(完成は、しないのですが)

40代は、その微差(昨日と比べた今日の、微妙な成長)をしっかりと認識できる。
それが、歳をとるってすばらしい、と思えるところです。
若い人たちにはたぶんこれはわからない。(プロアスリートとか、とある方面のプロフェッショナルをのぞき)

若い人たちは、鍛錬を怠ると自身が次の日微妙に「低下」していることが、わからない。「若さにまかせて」生きてゆける。
という意味で我々世代は常にチャンスがあるのです。