元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「馬鹿らしいハナシ」の再燃 世界を語る

「こうありたい」または反面教師

  • 「馬鹿らしいハナシ」の再燃

「馬鹿らしいハナシ」が始まると、とめどもなく出てきてしまうのです。。

「ムリのない範囲で」が広ければ広いほど、大損する世の中なのだなあ、ということです。
その容量が広ければ、ムリのない、つまり、肉体的精神的にストレスがたまらないままにどんどん仕事をやれてしまう。
そうするとガンガン仕事がふられてしまう。
やがて、ムリのない範囲を逸脱してゆきます。

「ムリのない範囲で」が狭い人間はすぐにギブアップしますし、そういうヒトほど、ムリしている状態の継続に耐えられないのです。

それに、「ムリのない範囲で」が狭い人間にはそれほど追い込みがかからない。はっきりいってしまえば見切りをつけられるわけですが、最近の生ぬるい世の中では、ロコツに見切りをつけることすらできない。

「見切りをつけられたもん勝ち」なのです。

そして、ガンガン仕事をふられ、ムリにムリを重ねて、何かが得られるかというと。。
この日本では、何も残らないのですね。倒れるぐらいで。

  • 世界を語る

テレビで「世界遺産」をやっていますが、それに派生して考えることは。。

いつの時代も、私が若かりし頃からずっと、大したことないヤツ(イコール若造、ですね)ほど世界をカタりますし、世界に憧れますね。
マスコミの情報の洪水の中で、上っ面だけの「世界」をピックアップして悦に入っているような。。
たとえば、知っていても全く意味のない海外ニュース(スポーツニュースも)にアンテナをたてるとか。。
世界遺産」や「ふしぎ発見」は必ずチェックして、「世界」について知った気になっているとか。。
駅前留学して、駅前が外国人(講師)と会話して悦に入ってみるとか。。

ですから、ヒトとしての器はまず、そのヒトがどこに目を向けているか、でわかります。
世界に目を向けるのは「虚勢」なのです。上っ面だけの「世界」に目を向けているヒトには、虚勢を張らなければならない理由がある。

そしてそういうヒトたちはゼッタイに、本当に世界に飛び出すことはできない。「世界に目を向ける」のは単なるポーズにすぎないからです。ただ、現在の生活基盤が不安定だから、わかりやすくちょっとお洒落な「世界」に目を向けているだけです。

私の時代は、世界をカタるのは「若造」だけでしたが、今は残念ながら。。
たとえば「自分探し」に夢中な女性などが、「地球の歩き方」片手にアツく世界をカタっていたりします。
カタるといっても、自分が何回海外旅行に行ったか、の数と日数を競っているだけのようですが。。
もちろんそういう方ばかりでなく、全世代的に「世界」をカタるヒトが増えてきています。

ほとんど、どの世代のヒトたちも、精神的な生活基盤が安定していない証左です。
いくつになっても「卒業」できず、虚勢を張り続けなければならない。
虚勢を張るというのはつまり、「逃避」なのかもしれません。
自分の生活基盤をしっかりさせないままに世界をカタって、何が報われるというのでしょう?

生活基盤をしっかりさせてから世界をカタっても遅くないのに。そのほうが、カタる内容に深みが出るのに。


もう何十年も前から、日本人は世界に進出しても自国の文化について外国人と議論することができない、と言われ続けているのです。そしてそれは全くカイゼンされていませんし、これからもカイゼンされることはないでしょう。
ゆとり教育とやらで、日本の歴史について知ることはますますおざなりにされたようですし。。

死、あるいは宗教に近い話

  • 二元論=>一元論

昨日か一昨日か、夢うつつの中で、主観と客観の二元を一元にする、ということを考えていて、そのときは納得したのですが。。
ほぼ完全に、忘れてしまいました。。 なんというか、「いいとこまでいった」という印象は残っているのですが。。

おぼえているのは、やっぱり、「死」を媒介にしなければいけないな、ということです。
「死ぬか、生きるか」の二元論ではいけないのだ、というところからはじまって。。 そこからどう進んだんでしたっけ。。

ちょっと寝かせておきます。