元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「馬鹿らしい」のハナシふたたび 

「こうありたい」または反面教師

  • ムリや苦労の尺度 「馬鹿らしい」のハナシふたたび

人生、ムリをしているヒトほど、世の中に対して主張を通す資格が生まれるのではないか、と考えています。今、もやっとしているのですが。。

ただ漫然と生きているヒトが世の中に向けて何か主張したり、発進したりしても、何ら説得力がないわけですよね。

では、どういうヒトの主張が通りやすい、というか、まず聞いてもらえるかというと。。
「ガンバッてる」ヒトなのではないか、と思っていたのですが。。
「ガンバッてる」というのはイコール、やはり内面的には「ムリ」を抱えているのではないかなあ、と。

「ガンバッてる」というのは、怠惰な方向とは正反対なわけですが、ただ何となく生きていると怠惰な方向に向かってしまうのが人間の性なのだとしたら、「ガンバッてる」状態というのは非常にムリしているということになります。
だから、そのムリを対外的にも内面的にも、何らかの方法で「楽しい」を発生させて「ムリ」と相殺し、モチベーションを維持する必要があります。「自分はムリしているなあ」と思いながら進んでいくと精神的にへばってしまいます。まあその自虐感が快感になることはあるでしょうが。。 それは長くは続かないでしょうし、そもそも不健全です。


ところで、たとえばビジネス・シーンの会議などにおいて。。
必ずしも上層部のゴリ押しが通じないこともあります。それは、上層部が怠惰な雰囲気を醸し出しているときですね。
仕事というのは説得力、納得感がないと「押し付け」はできないものです。口先だけでヒトを動かしてゆくことはできません。ですから、古臭いコトバかもしれませんが、上が「態度で示す」のは大事です。古典的かつ効率的なチームマネージメント手法です。

フラットな関係におけるミーティングなどにおいては、絶対的に、「仕事してねー」的なヒトの主張はとおりません。それは、健全な状態ですね。


ハナシがうまく進んでいませんが。。 これと少し関連することで、常に、「あきらめ」を感じていることがあって。。
ヒトの、「私」に対する評価というのは、どれだけ苦労を見せたか、だけなんだな、と。定量的成果なんてまったく見ちゃいないのではないか、と。

すまし顔で、いろいろ仕事なりなんなりをこなしていても、他人からみるとやっていないのと同じ。
たとえ、成果が出ているのだとしても。

それがなぜか、苦しい表情をしていると、成果が少なくとも、「ああ、やってるなあ」と思われる。


これが日本の、というか偽平等社会のきわめて悪いところだと思うのです。苦労を見せさえすりゃいいのか、と。


この日本の風潮を、あざとく利用するヒトたちが増えているんですよね。
つまり、生産性が低い人間ほど、「あータイヘンだタイヘンだ」という煙幕を張っている。そして、ほとんどの人間はまんまとそれにダマされるのです。
如実に結果が出ていても、その煙幕がだいぶ効いていて、「タイヘンなんだろうなあ」という温情采配が働いて、「評価」の低下を逃れることが可能。成果を上げていないのに評価は現状維持なのですから、まんまと功を奏しています。

生産性が高い人間は、生産性が低い人間が「タイヘンだ」と考える状況下ではまったくタイヘンではない。これは、当然のことですね。生産性が高い人間は、「タイヘンだ」と煙幕を張る人間を軽蔑しています。だから、成果を出していても、ほとんどの人間は評価を上げない。

つまり、生産性が高くても低くても、ほとんどの他人の客観的評価は同じ、「現状維持」なのですね。

しかも、生産性が低い人間がちょっと偶然今まで以上の成果を上げると、評価は即UPします。
そして、生産性が高い人間がちょっとミスをすると、評価は即DOWNします。

これでは、生産性が高い人間が「馬鹿らしい」と思うのも当然。

実際は「わかるヒトにはわかる」のですが、わかるヒトはほとんどいないのです。


いつものハナシに戻ってしまった。。

主張が通るかどうか、のハナシに戻ると、ムリをしているヒトの意見ほど通りやすい、という風潮を逆に利用して、ムリをしていると見せかける技術に長けている人間の意見ほど通りやすくなる、という状況が起り得ます。
すまし顔で仕事をこなし、内面的にムリをしているのだけれども他人にはわからない、というヒトの意見が通りずらくなる。

これが、今の日本の偽平等主義が生んだ悪しき結果なのです。



再録・継続

  • 計画のよさ(20070323)

計画を立てるクセをつけると、生活がシンプルになってゆくような気がします。

なぜならば、まず、計画をたてるというのは非常に頭を使うからです。いきあたりばったりに過ごすよりも。物事を道筋立てて論理的に考える訓練になります。

それと、計画に対する結果として、行動がシンプルになります。ムダな動きがなくなってくるということです。

ムダな動きが減ると、ストレスも減ってゆきます。「なんでこうなるかなぁ」的な後悔が少なくなるからです。

いいことだらけなのですが、そもそも計画的に物事を進める、あるいは、計画を考えること自体にアレルギーがあるとダメでしょうね。「やらされてる感」が支配しているうちは。

でもそれは、変えられます。ひとつ結果を出してしまうといいのですが。。計画を立てたからこそ、コトがうまく運んだ、という。それが続くと、もう計画を立てること自体がやめられなくなり、好循環になってゆきます。

なぜ、「なりゆきまかせ、風まかせ」が逆に賞賛されるのか、いまだにわかりません。過去の60年代〜80年代はそれでも通用したからでしょうか? 

たとえば、サラリーマンのような生活がイヤで喫茶店を始めました、みたいな典型的な方がいたとして、店舗選択や月々の売上げ計算などはゼッタイに「なりゆきまかせ、風まかせ」ではやってないと思うんですけどね。ポリシーを変えていない人は99.9%ツブれていってるでしょう。

「なりゆきまかせ、風まかせ」でもツブれていかない人は、前にも似たようなことを書きましたが、「選ばれた人」なのです。そういう人は存在するのです。でも、「私」はそもそも「選ばれた人」ではない。

「選ばれた人」は、状況と、他人が、助けてくれるのです。

それとも、「なりゆきまかせ、風まかせ」が根源的な人間の生き方なのでしょうか? でもそれはきわめて原始的ですよね。進化した人間は、そっちのほうに戻ってゆかなくともよいのでは、と考えます。

計画がイヤだったら「プランニング」とでもおきかえればいいのです。現代人は横文字には弱いのですから。

(再録終わり)