元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

終わりなき日常を楽しむこと 文句は言うべき(会社シリーズ)

本来の日記部分

  • 体調

熱は1日でひきましたが、まだ鼻水などぐずぐずしています。
同じようなことをほんの2週間前に書いたばかり。。
風邪の症状が継続してスカっとしないと、ホント不快ですね。。

  • 仕事

新しい現場で早速丸投げの萌芽が。腹立たしいです。
いちばん腹立たしいのは、自分が各方面に対して高飛車な態度になっていることに気づいていない人間が大勢いるということです。敬語を使ってれば高飛車がオブラートに包めるとでも思っているのでしょうか。

会社シリーズ

  • 文句は言うべき

久々の「会社シリーズ」。。(でしょうか?)

何かやれ、といわれたときに、ぶつくさ文句は言うけど、結局はやれといわれたことを完遂する、というのが理想に近いと、考えるようになってきました。

とりあえず「男はダマって。。」ではゼッタイにダメだということはわかりました。それではいいように利用されるだけです。それは、企業側が求める人材そのものです。「文句言わずにやれよ」と。

文句を言うだけ言って、でもやらない、っていうヒトもたくさんいるのですが。。
それは「やらない」のか、「できない」のかで、対応は変わってきますけど。。


ゴネるのは大事です。ムカシは、「男はダマって。。」黙々と仕事をこなし、無理難題も笑顔で引き受け、一人オフィスに残って。。 みたいなのがカッコいいと思っていました。ホントに。

それはなぜかというと、黙々と仕事をこなすことで、ある程度報われるモノがあったからです。精神的にも、実質の仕事の成果的にも。

でも今の「会社人」の風潮はそうではありません。文句が聞こえてこないところに負荷が集中する「システム」が暗黙のうちに構築されつつあります。
もっといえば、文句が聞こえてこず、さらに仕事の生産性がある程度高いところ、ということになりますが。文句が聞こえてこなくて仕事の結果もでない個人、チーム、あるいは部署は、存在そのものが窓際ですからね。。

仕事の負荷が高くなってきても、誰も気にかけてはくれないのです。「キツいんだったら、自己申告しろよ」と求められます。「ひょうひょうと仕事してるように見えたから、気づかなかったよ」と言われ。。 ホントは、高い確率で皆気づいているのです。言われるまでは放っておくだけで。

ホンキで仕事のキツさを他力で軽減するためには、そのキツい定量的事由を整理して上に報告しなければなりません。たとえば、「他部門との調整がキツいから。。」では、定量的な事由にならず、「ま、ガンバレよ」「オマエのためだから」で終わりです。
その事由が真に定量的に問題があるときでも、高い確率で「ま、知ってのとおりヒトも少ないから。。なんとか頑張ってくれないか」と懐柔されて終わりになります。
ですので、その事由を整理する時間すらムダ、という考え方もありますね。

こうして、同じチーム、同じグループであっても、負荷の格差が生まれてきます。負荷が高いことに対して「今はキツいだろうけど、これが後々オマエのためになる」という理由をつけられることもあります。それは、大事なことを隠蔽されているのです。

サラリーマンはこういうこととも闘っていかなければならないんですよね。自分はサラリーマンではありませんが。。
最終的な手段として「倒れる」ことでやっと、「ああ、アイツそんなにキツかったんだ」と気づかれることもありますね、サラリーマン社会というのは。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 終わりなき日常を楽しむこと(【重要】マーク)

終わりなき日常を楽しめるヒトと、頑なに楽しめない(「楽しまない」)ヒトとの、「人生」についての考え方の違いは、現代、近未来においては決定的な決裂要因になってゆくような気がします。

戦争でも起こらない限り、この国では「終わりなき日常」は続いていきます。ならば、非日常のイベント性を日常の外に求めるのではなくて、その日常性を楽しもう、という考えにシフトしてゆくのは、私は正論であり、当然の移行だと考えているのですが。。 どうやら、全く考え方が違うヒトたちが未だに多いということに、気づいてきました。

非日常というのはその名のとおりで、非日常を継続的に続けようとすればそれは日常になってきます。「非日常的な日常」というのは、刹那的で土台があやういものです。

非常にわかりやすいたとえでいえば、月〜金の仕事では自分をコロして、土日のアソビに全てを賭ける、といったようなことでしょうか。このたとえでいえば、1週間7日のうち、5日はキツいわけです。割合として、単純に考えてキツい人生だと思うのですが。。 こう考えるヒトの人生の5/7は、死んでいるも同然なわけです。

それであれば、自分の人生の5/7をコロしてしまうよりは、その5の「日常」の中のささいなことを楽しみにしよう、とか、仕事がキツいのであれば、仕事の前、あるいは後に、些細な楽しみ(継続できるもの)をセットするとか。。

そういうことを、皆がやれているようでやれていないような気がするのです。


何かに書いてあったとあるヒトのエッセイによれば、その人のおばあさんは、夜ふとんに入るときに「あー極楽極楽」というのが口癖だったそうです。
この方は、毎日眠ることを楽しみにしていたということです。この感覚、考え方は、現代のほとんどの方は理解不能なのでしょうし、私も、読んだときはピンときませんでしたが、最近になってわかるようになってきました。

ムカシ、特に戦後を生きた方々は、ホントにキツい日常を送ってきたのだと思います。だから、その1日が終わること、つまり、床に入るという儀式に日常の楽しみを見出していた。
日常の中に楽しみが見あたらなくて、そこに楽しみを「見出さざるをえなかった」というのも、わかるのです。でも、日常の中に継続して楽しめる小イベントを挿入しておけば、すくなくとも日常が続く間すべてで自分をコロすことはなくなります。
そのおばあさんは、もしかしたら無意識で「夢」をコントロールできたのかもしれない。床に入ってから、またキツい日常が始まる朝までの間だけでも、楽しい夢想ができたのかもしれません。

日常の中に継続性のある楽しみを見出すことは、終わりなき「キツい」日常が続いていたヒトたち、もちろん、年に数回の旅行などゼッタイにいけなかったような人達の、生きるために智恵ではなかったですか。
これを我々も取り入れなければならない時期にきているのです。我々が感じている「終わりなき日常」は、退屈であるがゆえに少しずつ、真綿でクビを絞めるかのごとく「キツく」なってきているのです。
これは、高度資本主義社会の恩恵を享受している我々に対して試練として与えられた、恩恵の代償なのかもしれません。


けっこう、筆がノってきたのでばーっと書きましたけど。。 ちょっと要旨がとっちらかってるかもしれないですね。近々見直してみようと思います。