元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

毎日毎日同じことを続けることの効用

人生観、のような、思想の話

  • 毎日毎日同じことを続けることの効用(微分か? 積分か?)

前にも書いたかもしれませんが、毎日毎日ほぼ同じ時間に同じ作業を続けると、その作業が「空気」のようになってゆきます。
「空気」なので、負荷ではない。そして、楽(「ラク」)です。

ラクなのはいいのだけれど、なんというか、日常が「のっぺり」してくるというのは、ありますね。
そして、1日、1年といったタイムスパンが格段に短く感じられてきます。「もう1日がおわってしまった」とか「もう1年経ってしまった」という感情を「ネガティブ」ととらえるヒトは多いです。それは、わかるような気もします。

ところで、「もう1日がおわってしまった」をネガティブにしないために1日の終わりにおいしいビールを飲むとか。。
さみしい気分を紛らすために、人間はいろいろなことをやっています。夜にいろいろなことをセッティングし。。
年のスパンでいえば、大晦日や年末、年始にイベントが目白押しだったり。。


日常が空気のようになってくる(のっぺりしてくる)事実はあるので、自由時間で補償しなければなりません。
でもそこではしゃぎすぎないこと。補償するだけでよいのです。それ以上はしゃぐ必要はありません。

空気のように作業しなくてよい「自由時間」を非日常と考えるか、「自由時間」も「日常」の一部に含めるか、というのは、コマカいところなのですが僕の中でずっと考え続けていることで、日記にも断続的に書きなぐっているはずです。

どちらにしても、メリハリをつける必要があり、自由な時間を「のっぺり」させるのはいけません。


僕の下の世代のヒトたちの多くが、「自由時間」以外の時間に人生を圧迫されてしまう妄想を持ち、人生そのものが「終わりなき日常」であると考えてしまうのはなぜなのでしょうか。

少なくとも僕はそうは思いません。
でも僕の人生は「彼ら」よりも数倍、「日常」の作業が多い。まず、月金で働きに出ること自体が「日常」です。
そして家内の手伝いではなく、主体的にやっている家事。
土日もコドモにつきっきりで自由な時間(と自分が感じることができる)はほとんどありません。

僕個人の人生はリアルに「日常」に圧迫されている。でも、「終わりなき日常」という絶望感はまったくもっていない。

絶望ではなくて、やはりコドモがいますと、このまま平穏無事に人生(現世)が終わればいいなあ、とすら思います。
という意味では、「終わりなき日常」に積極的に乗っかりたいとすら思っているのでしょう。
「終わりなき日常」を否定していない。平穏無事に「日常」が続くというのはすばらしいことである、と思い始めています。


ふつうに働いてる人間が自由にできる時間なんて限られています。
僕も、わずかばかり、ホントに自由な時間を捻出できますが、それは、「安定」という基盤があってはじめて捻出できる「自由」です。

人生そのものが不安定な状態であれば、極論すればすべてが自由時間であるともいえます。それはそれで、ヒトは不安になるものです。(経験済)

でも、安定したらしたで、即座に「やらなければいけないこと」で埋まってしまう。。
ほどよい状態というのはなかなか難しいものです。


だから、なるべく自由じゃない時間は、「やらなければいけないこと」は効率的にするべきだ、というのは僕の持論です。

僕はその、効率化するプロセス自体が、好きなんでしょうねえ。
「プロセスを好きになる」というのは、「うまく生きる」手法として大事なんだろうなあ、と思います。

「やらなければいけないこと」で埋まってしまった状態で思考停止してはならない。
そこでネガティブになってはいけない。ポジティブに効率化してゆけば、事実、少しずつ「自由時間」が増えていきます。
自由時間が増えれば、「自由時間ができたらどうしようか 旅行しようか 云々」などと、楽しいことを考えることができます。

といった感じで、好循環を生み出していかなければなりません、自ら。人生の好循環は、他力ではやってきません。



この日記で何度も何度も書いていますが、日常があれやこれやのルーティンで埋まってくることに対する批判は、あります。
そのルーティンを受け入れて効率化する、ということ自体をまったく考えず、ルーティンをはねのけることを考えたほうがカシコい、と。

それは、わかるのですが。。
今のニッポンは、史上最高に庶民の「ルーティン」が減った時代ではないでしょうか。
そんな時代に、誰かが必ず引き受けなければならない「ルーティン」を、皆が皆はねのけなくてもよいではないですか。


だからまず、悪意なくルーティンが自身にふってきたら、受け入れましょう、と。(悪意とともにルーティンがふってきたら、明確にはねのけるべきだと思います そのへん、僕は菩薩にはなれませんので)

ルーティンを「苦」と考えるのはやめましょう、と。
空気のようにやりましょう、ラクになりましょう、そして作業を効率化すれば自由時間を確保できます。

そういうことをずっと書いてきました。



人生のほとんどの時間を何も考えずなんかしていれば、それでよい(飢えずに、雨風をしのいで、生きてゆける)のであればそれは相当、幸せなことです。
人生のほとんどが「何もすることがない」のであればそれは相当、不幸です。

ということをわかっていないヒトが、未だ多い。

ルーティンを苦と考えずに「何も考えずなんかしてる」という「無」の状態にすればいいのに、と僕は他人の行動をみて考えてしまうことが多いです。

そこに何の「カベ」があるのだろうか? 他人をみていると、プライドがジャマしてるんだろうなあ、とみえることがよくあります。
ムズカしいことではないと思うのですが。