本来の日記部分
- 体調
昼から発熱。熱は測りませんでしたが、現場で、発熱したのははっきりとわかりました。仕事手につかず。
日記で検索したら、4/7に発熱したばかり。うーん、何かがおかしい。。
プラス、ふつうの風邪の諸症状は相変わらず継続。
それと、ウサギのフンのような便でした。(キタナい話ですみません 記録として残しておきます)
再録・継続
- 20060925[散歩は見聞を広められる]
http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20060925
海外旅行にいって「見聞を広める」という話を聞きます。では散策では見聞は広まらないのか?というのは散歩者としての自分のひとつのテーマであり、見聞が広まるのは実体験上わかっているのですが、それを他人に明確に伝えることができません。
上に書いた件の続きになりますが、「ただ歩いて何が楽しいのか」という問いに対して「散歩は見聞を広めることができる」「なぜなら〜」のこの「なぜなら」を一般的見地で説明できないのですが、最近は一般的見地での説明をあきらめています。
プロフィールにも書いているのですが、海外旅行、つまり外に目を向けることにより可能性は無限にありますが、内側に向かっていっても可能性は無限にあると思っています。極端なたとえでいえば「宇宙は無限に広がっており、原子も無限に広がっている」ということになりましょうか。
活動にひきつけていえば「路地裏は無限である」ということです。実際問題東京には無数の路地裏があり、一歩路地裏に入ればパラレルワールドが広がっている感じがします。
少し前までは、この路地裏感覚のようなものが好きだったのですが、テレビなどでは誤った下町のイメージとともに、偏向がかった「路地裏の魅力」のような情報を垂れ流しているので、若干興ざめしています。
路地裏の魅力は路地裏にある「名店」を発見するところにあるのではありません。そういう意味では路地裏には何もないのです。単なる路地の裏なんですから。
マスコミの情報の流布は、結局は経済活動を促す目的に帰結するので、気をつけなければなりません。路地裏というのは本来一銭も使わない、通り過ぎるところなので、マスコミに登場する理由がないのです。マスコミ的には「行っても仕方のないところ」のはずなのです。(それがいいのかな。。と書いていて思いました)
他人の意見を借りれば、路地裏には日本の原風景が広がっている、という解釈もあり、大筋納得できます。ただし自分は路地裏というものが存在しないぐらいの田舎で育っており、そういう都会的ノスタルジック風景には思いいれがないはずなので、自分が日本の原風景をわざわざ見にいっているとは思いません。
新横浜のラーメン博物館のようなセット、「昭和30年代の日本」、チャルメラが流れ、力道山に熱狂し、人々はつつましく暮らし、家族でちゃぶ台で飯を食べる。。みたいなああいう感じの、ノスタルジックなイメージの押し売りは好きではありません。私のようにああいう世界に育っていない人間もたくさんいるのです。私が育ったのは「一面原っぱ」みたいな風景が広がっているところで、まず、飲食店がないのです。
それと、そもそも昭和30年代の風景などおぼえていないし。。
自分がなぜ路地裏が好きか、という話に移行してしまいましたが、昔は散策していて意図的に路地裏に迷い込もうとするフシがありましたが、上述の理由で今はそれほど路地裏に思いいれはありません。そのような日本の過去の風景を振り返るよりも新しい技術(都心再開発)を見ていたほうが楽しいような気がします。
それと、自分は散策により見聞を広めているはずなのですが、そのアウトプットが出せないんですよね。。
じわじわと教養が深まったり、雑学が増えたり、おいしいお店を知ったりしているのですが、他人に伝えるにはインパクトが足りません。
(再録おわり)
自分の人生におけるテーマのひとつである「海外旅行、つまり外に目を向けることにより可能性は無限にありますが、内側に向かっていっても可能性は無限にある」はずだ、ということに関する考察です。
旅行に行く金がないから散歩で済ます、とか、そういうことではないのです。旅に出るヒトは、そもそもなぜヒトは旅に出るのか? ぐらいまで考えてみたほうがいいのではないかと考えます。