元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

あらためて「節制」の時代(2) 会社シリーズ 個性について

本来の日記部分

  • 体調

前回の10kmロードレースでは、急に練習しすぎて失敗したので、今回の東京マラソン(10km)では、あえて練習しないというスタンスでいます。その代わり、早足のウォーキングで足の鍛錬を続けています。
ふだん全くジョグをしないヒト(限定)にとっては、足は「消耗品」であるというのが自分の考え方です。練習しなきゃ、と思って付け焼刃で本番前の練習を重ねるほど、足が消耗してしまい、本番で足が使い物にならなくなります。なぜならば、ふつうのヒトたちにとってはアスファルトの上を走るというのは相当負荷がかかることだからです。
ということで、にわかランナーにとっては、事前練習は早足のウォーキングが効果的、という説を提唱したいので、その実践をしているところです。
今回の東京マラソンの目標は、「歩かないこと」。。

  • カレンダー(予定の記入というよりはほぼ日記)はこちら

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人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • あらためて「節制」の時代 (2)

節制による「選民意識」はもっていいと思いますね。節制というのはつまり努力を継続しているわけですから、選民意識を持って「何か悪いか」と思います。それは別に口に出さなくとも心の中で思っておけばいいし、必要なときは口にだせばよいです。
そういうヒトが増えればいいなあ、と思うし、(努力を継続しているのであればある程度傲慢でもかまいません)自分もそうなるべく努力をしています。

中村とうようさんも、相当ムカシの「トーク」で似たようなことを書いていました。「オレは勝手に選民意識を持っている・・・そう思うのは勝手・・・だってものすごく働いてるし税金も納めてるし・・・」みたいなこと。(相当うろおぼえですが)
自分はこの文面を読んで「すっと」入ってきましたが、こういう物言いに拒否反応を示す方々もいるのでしょう。

  • 「こうありたい」と願うのは自由

「こうありたい」とイメージし、それに近づいてゆくのはうれしいものです。その「こうありたい」というイメージは、ヒトは自由に設定できます。目標を近きにおこうがムリなところにおこうが、勝手なのです。勝手であるがゆえに自己責任が求められます。目標をムリなところにおくことによって挫折感が増長したりストレスがたまったりしても、それは自分が悪いんですよ。しかもそれは、自分の努力によって改善可能かというとそうでもなくて、自分の「器」の問題なんです。もともとの資質なんですからカイゼンはほぼ不可能なんですよ。自分の器を受け入れて、目標設定はそれに見合ったものにする必要があるのです。その作業をしようとしないヒトが多いんですよね。。 社会が豊かになって間違った「万能感」だけが助長されるから。。

これと似たようなことは何度も何度も書いているような気がするので、一度まとめたほうがいいようですね。。

会社シリーズ

  • 分業

仕事においては、考えるヒト、計画を練るヒトたちとそれに対比するかたちでの実行するヒト、作業するヒトという図式が成り立ちますが、どちらも優秀じゃないと仕事はうまくいかないんですよ。互いに責任のなすりつけ合いをしたってどうにもならないのです。
ビジネスシーンには、そんな当たり前のことに気付かないヒトたちが多すぎます。
どちらかが優秀でどちらかがそうでなければ、優秀なほうにしわよせがくるのは当たり前です。

そして、優秀なヒト、優秀な集団というリソースは、限られているのです。ですが、優秀なヒト、集団を教育によってつくりあげることはある程度可能です。それは、ポテンシャルが優秀ということではなくてあくまで「仕事」というシチュエーションでのみ優秀な人材です。

教育について

  • あらためて「個性」とは

「個性」については何度も何度も言及していますが、現在、一般的な意味で使われる「個性」とは、他人と違う行動をとるか、他人よりある分野で秀でるか、カンタンにいえばどちらかしかないわけです。
でも、「ホントにそれだけ?」とは常に思っているのです。それをここ(の日記)に書き出しながら何ヶ月もずーっと考えてきたんですけど。。
その、考えているテーマのうちのひとつは、器用貧乏という個性はあるか、といったようなことです。どの分野でも秀でていないけれどどの分野でもそれなり、というのは個性か否か、と。
これは、自分はまさにそれに当てはまる人材なので、これを個性として認めてくれよ、という悲痛な思いから始まっているわけです。


先日日記を数日中断して、再開してから、なんとなく「書き出し」がハゲしくなっていますね。。 自分はいつも自分を客観的にみていますが、何かの予兆なんでしょうか。
でも、最近の書き出しというのはほとんど過去の書き出しの反芻のような気がしてなりません。何度も繰り返して書いていることこそ自分の「オピニオン」なんでしょうね。