元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「思想」をしない時代(二)「節制」の時代

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アメリカナイズも悪くないな、と思うのは、かの国では嫌煙運動がものすごく進んでいるし、デブ(あえてこのコトバを使わせていただきます)に対する風当たりも強いからです。
つまり、節制を奨励しているということです。

日本人も節制する人たちばかりになってきたら、面白い。
面白いというのはつまり、戦後、勤勉を放棄したがために諸々の成長が見込めなくなってしまったニッポンがV字回復で変わってゆくかもしれないということです。

今考えると戦後は一貫して「自堕落」の時代で、節制がトレンドになりつつあるのは初めてのことではないでしょうか。これも「豊かさ」の証左だとは思いますが…ひとムカシ前は国自体が貧乏でしたから、「節制」を意識せずともほとんどの日本人が節制していたわけですから、それが日常であるがためにトレンドにはなりえませんでした。

これからの時代、僕は、前回のバブル期とは異なり、節制したものだけが生き残れそうなニューバブルの到来を予感しているので、今まさに起こっているゆるやかなパラダイム・シフトを歓迎しています。「ついに自分たちの時代か~」みたいなワクワク感があります。

ダイエットだの健康食品だの、そういうものは、人間というのは自堕落である、という前提での商品、ブームでしかありません。好きなもの食べても痩せられます、飲んでるだけで健康になれます、というのはそういうことです。
それは、節制できる人間にはそもそも必要ありません。
これからの時代、そのような前時代的な商品は駆逐され(ることをのぞみます…)、新しい時代の消費が生まれてきそうです。節制している人間にだけものすごいドライブをかけるような商品… 自堕落なヒトたちには何の意味もない商品。

節制できなかった我々庶民(いや、節制はできたはずなのに、戦後の大局の中でマスコミに洗脳され、「節制」ということを忘れてしまったヒトたち)は、常に売り手にバカにされ続け、ムダ金を吸い上げられてきました。そのムダ金により日本の経済が循環し、我々が現在豊かな社会インフラを享受できているというのが、ヒニクではあります。

節制による「選民意識」はもってよいと思います。節制というのはつまり努力を継続しているわけですから、それだけで選民たりえます。それは強力なバックボーンになります。

「選民」とは「選ばれた民」ではなく、自ら主体的に自らを選んだ、ということです。
なんとなく自身の天性の才能を過信して、努力を継続することもせず「オレはひとあじ違う」と思い続け、世の中に対して何のアウトプットも出せず、貢献もしていない人間のなんと多いことか。。そういうヒトたちは、「世の中」あるいは「時代」というものに選ばれることを待ち続けていますが、プライドがジャマをして自らを選ぶということをしません。

そういうヒトほど「自堕落」のポーズをキメている自分に酔ってしまっており、そこからのリカバリはほぼ不可能です。そして、そこからの成長もありません。つまり、そういうヒトたちがもっとも嫌う「庶民」として生きていかなければなりません。(あがきつづけた結果として渋々「元の鞘におさまる」わけです)

節制する選民が増えればいいなあ、と思うし、努力を継続しているのであればある程度傲慢でもかまいません。自分もそうなるべく努力をしています。努力の継続という自信に裏打ちされた傲慢、というのは僕の大きな課題でもあります。


中村とうようさんも、相当ムカシの「とうようずトーク」で似たようなことを書いていました。「オレは勝手に選民意識を持っている・・・そう思うのは勝手・・・だってものすごく働いてるし税金も納めてるし・・・」みたいなこと。(相当うろおぼえですが)

「節制」って具体的に何をすればいいの? と、まずマニュアルを探しはじめようとするヒトはキケン信号かもしれません。これからの時代にうまく立ち回れない可能性があります。