元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

赤坂氷川神社あたり 「思います」で逃げる(会社シリーズ)

【トピック】
トランシーバを使っている人が多くて、トランシーバが欲しいと思ってしまいました。。
【活動】
赤坂の氷川神社あたりを散策。
【人間ウォッチング】
氷川神社付近の路地で唄っている若い女性がいました。鼻歌の声量は超えていたので、練習ではないかと推測しました。なぜ道で唄の練習をしているのかはわかりませんが。。
【違和感】
打ち合わせ時など、ここ数年で、「、と思います」という言葉を最後につけて、断定を避けて責任を逃れる人が激増しています。激増どころか会議、打ち合わせというものはそもそも状況について断定をしないものになってきているように思います。
以前は違和感を感じていましたが、最近は「、と思います」というのはもはや断定であると考えていいのではないか、と考えるようにしています。「『思います』としかいってません」
といわれても「思います」が語尾についていたことなどおぼえちゃいません。

逆に、「できる」「やれる」と断定する人は最近減っているので、それは意気に感じるべきではないかと思っています。「やれる」といったことが覆ったときに、「あのときやれると言ったじゃないか」と責めないようにしています。責任を引き受けたことに対してリスペクトしているのです。

昔小僧だった頃は、「、と思います」というと年配の方々に怒鳴られました。今は、年配の人も断定しないようになってきています。
【雑感】
[引き受けようとする覚悟]
物事の未来は100%ではない、ということは、誰しも共通理解としてあります。それをわかった上で「できる」「やれる」と断定できるかどうか。。そのためには、その根拠を固めておく準備も必要です。
会議や打ち合わせで「、と思います」が蔓延している背景には、物事の負の部分を「引き受けよう」という覚悟(「器」と言い換えてもよいかも)のない人が増えているという事実があります。
これは自戒の意味も含め。。 ただし自分はビジネスにおいてはなるべく「引き受けよう」とは思っています。(まだまだですけど)それが「訓練」というか、それをやっておかなければいけないような気がするのです。

特に、サラリーマンには少ないです。もともと少ないですが、さらに減っています。年配のサラリーマンの方々も、その傾向を憂いています。
さらに悪いことに、「引き受けよう」という覚悟がないままに中間管理職に上がってしまい、上がそういう人ばかりになっている会社が増えています。中間管理職というのは特に「引き受ける」覚悟が必要であるにも関わらず。。

負をとることが利にならない、という正論は、わかるのです。やってもやらなくとも給料は変わらない、とか。。仕事にはそれを超えたものがある、ということを教えられる上司が減っているのでしょう。
サラリーマンの方々はそういう資質がないわけではなくて、組織の中でサラリーマンをやっていくうちに、そういう「気概」のようなものが削がれてゆくのだと思います。

ビジネスにおいては作業負荷が、「引き受けよう」とする有能な人間に集中してしまい、馬鹿をみるので「馬鹿らしいからやめた」と投げ出してしまうことがあります。
。。と、この話は以前書いたものとつながりました。
http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20060813

そしてわずかに残った「気概」を持った人というのは、会社の中枢に上り詰めるのではなく、最近は転職してしまうという。。「富」ではなく人材の一極集中化も、これから進むのでしょう。