元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「健康」より「幸せ」のほうが上だって

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「しあわせ」とはね。。

手料理を、おいしいね、おいしいね、と言い合いながら、みんなで食べることだよ。

その料理の種類とか質とか(例えば栄養価がどうこうとか、野菜がすくねーとかなんとかとか)、そんなの「基本的には」問わない。
手料理であればいい。

大事なのは、その手料理をつくるのは別に母親でなくともいいんだよ。母親「固定」じゃないんだよ。父でも子でもいーじゃんか。ローテーションでもいい。

あの、なんだか知らんがおっさんどもが礼賛する「昭和の風景」っての? 夕方になると母さんが包丁をとんとんとんとかやってさ、夕飯の準備をする風景。。みたいな?
あれってさ、おっさんの妄想だからゼッタイ飯の支度するのは「母さん」固定じゃん。あれがおかしいっつーの。平成の時代は必ずしもそうではない。

それとね、「みんなで」とは家族が基本だけど家族とは限らない。週末のパーティー的な? 知人友人を呼んだり、呼ばれたりするのも楽しい。
けどな、そういうときの食事はオードブルのケータリングじゃダメなんだよ。ていうか別にそうしたきゃすりゃいいんだろうが、それは「幸せ」な状況ではない。
大人数で飯食うんだったらみんなで準備してみんなで片付けりゃいいんだって。

あとはね。。「おいしい、おいしい」って食べるんだからおいしい食事である必要があるわなw 
でもな、「おいしい」の判断基準ってのは別にあの「レストラン的な」ものじゃないんだよ。
一生懸命、誰かのためにつくれば、自然とおいしいものになる。つまり、誰かのためにつくるのが肝要だってことだ。その点では世の中のパパさん連中ってのは大きなカンチガイをしてるヤツらが多くてな。。自分のために、自分のエゴのために食事をつくるヤツがホント多くてね。
そういうヤツは「レストラン的な」基準の「おいしい」食事をつくろうとする。さっきと似てるけどそうしたきゃそうすりゃいいんだが、それは「幸せ」ではないのだよ。
ま、技術的な点をひとつだけいわせていただければw 味見はちゃんとしようねwwと。

最後に。。別に毎日さ、「手料理でなければ!」なんてプレッシャーに感じる必要なんて、ないんだよ。たまにはレストランで食事してもいいじゃない。レストランで「おいしいね、おいしいね」っていえる間柄であれば。

日常の食事にたまに惣菜をとりいれてもいいじゃない。レンジでチンでもいいじゃない。

最後に書いたこととその前に書いたことは絶対的に矛盾しないんだ。矛盾しないんだってわかるまでは、「修行」したほうがいいよw

でもね「軸」は手料理であるべきだ。
軸さえブレなければいいんだよ。