元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

語る禅僧

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(以下、引用)
わが宗祖は留学先の中国で、ある体験をきっかけに「身心脱落」した、ということになっている。これは後年、いわゆる宗祖の「悟り」になぞらえられるから、みんな何かただならぬ特別事だと思うし、末裔の私たちとしても、その意味をどうしても知りたいと思う。
(略)私に言わせれば、宗祖は、特に異常事態に見舞われたのではなく、それまでの自らの修行体験全体を語りうる「身心脱落」なる言葉を発見しただけである。それこそが彼の最初の「悟り」なのだ。
大事なのは、それが最初だということである。「悟り」は一回で終わらないのだ。それは深められ、拡大されていかねばならない。つまり、「悟り続け」なければならない。この「悟り続ける」ことを修行という。一回で終わる悟りは、結局、悟りの錯覚にすぎない。
悟った人には言葉がある、と宗祖は言う。その言葉自体が本人の完全なオリジナルである必要はない。独自でなければならないのは、体験と言葉の関係なのである。その関係の質と強度が「悟り」の程度を決めるだろう。

語る禅僧

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