元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

町田宗鳳さん(「こころの時代」)

法然を語る 上 (NHKシリーズ NHKこころの時代)

法然を語る 上 (NHKシリーズ NHKこころの時代)

イマジネーション(想像力)というものがどこからくるか、といえば、表面的な意識からこないんです。表面的な意識からくる想像力は、先ほど言った「形式的想像力」ですよね。「チューリップを想像しましょう。子犬を想像しましょう」と、意識ですから。そうじゃなしに自分の無意識から出てくる想像力、これがもっともパワフルなわけですね。で、その「無意識」というものは、これはフロイドという人が最初に理論化したものですけれども、普通は非常に恐ろしいものと思われているわけです。人間のいろんな精神疾患は無意識からくる、と。そのように言われてきたわけですが、実は無意識を抑圧しなければ、無意識を解放するというか、意識と無意識の風通しをよくすれば非常にポジティブ(positive:積極的な)でクリエーティブ(creative:創造的・独創的)な力を発揮するもんなんですね。

 
草柳:  「無意識を抑圧しなければ」とは、どういうことですか。
 
町田: 
以前に、「否定的記憶」という言葉を遣いましたけれども、我々は生まれてからこの方いろんなことを体験しています。良いことも悪いことも。特に悪いことというか、悲しい否定的な体験が黒い記憶となってヘドロのように私たちの心の底に溜まっている。

 
草柳:  無意識の底に溜まっているということですか。
 
町田: 
そうですね。言ってみれば、無意識が生ゴミのゴミ箱になるわけですよ。いろんな記憶を押し込めてしまっているから。
 
草柳: 
嫌なものはみんなそこに押し込めているという。
 
町田: 
そうです。意識から離して無意識に放り込んで忘れたいわけです。ところがそこから悪臭が出てくるわけです。その悪臭が私たちの日常の生活を邪魔するわけですね。私たちの意識を妨げるわけですね。私たちはみんな幸せで明るくて親切で、愛情豊かに生きたいんですけど、それができない。それは私たちが無意識を抑圧しているからなんですね。その無意識をもっとも直接的に見つめた宗教家のお一人が親鸞さんじゃないか、と私は思っているんです。親鸞さんに有名なお言葉がありますよね。「心は蛇蠍(じゃかち)のごとくなり」と。自分の心は蛇とか蠍(さそり)のようなものである、と。表面的にはいろいろ繕っているけれども、それはあくまでエゴの繕いであって、心の正体は蛇であり蠍である、というふうに言い切っておられるんですよね。

 
草柳:  それをこんなふうな言い方で言っているんですが、
 

悪性さらにやめがたし、こころは蛇蠍(じゃかち)のごとくなり、修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆへに虚仮(こけ)の行とぞなづけたる。
 

町田: 
そうですね。自分の悪い性格というのは止められない、と。蛇や蠍のようなものである、と。どんなにいいことをしても、エゴという毒が入っているから、それはもう見せかけにしか過ぎない、とおっしゃっているわけですよ。ここまで深い自己の内省というか、仏教的にいえば深い懺悔ですよね。それがあったからこそ、弥陀の本願に一心にすがる親鸞さん独特の念仏の世界が開けてきた、と思うんですよ。暗いものをご覧になったから、阿弥陀様の明るさが眩しいほど入ってきた。親鸞さんのお言葉には、「光」という言葉がたくさんございますけれども、それはまさに自分の中の蛇と蠍を見つめた人のお言葉じゃないかと思うんですけども、前回取り上げた法然さんの「一枚起請文」もそういうことなんですよ。自分を本当に見つめて、自分の醜さとか小ささとか、そういうものに気が付いたもののお念仏、それで私たちは救われていくというのが「一枚起請文」の精神だと思うんです。無意識の方に話を戻しますと、実は近代人だけじゃなくって、昔の人もそういう心の深い層に気が付いていて、「無意識」という言葉は遣わなかったけれども、「見るなの座敷」という、神話とか民話のモチーフですけどね。

 
草柳:  見てはいけないという意味の「見るな」ですね。
 
町田: 
そうです。見てはいけませんよ、と。「鶴の恩返し」のお話がありますけれども、鶴が恩返しするために、これからこちらの部屋に入るので覗かないでください、と。鶴は自分の羽根を取って機を織っていくわけですが、世界中の「見るなの座敷」の物語を見ていくと、蛇になっていたり、恐ろしい何か幽霊のようになっていたり、まあ美しい女性が動物になるというパターンが多いんですけれども、まさにこの見てはいけませんよという、「座敷」というのは人間の無意識のことなんですよ。ですから古代からそれに対する気付きはあったわけですが、それが近代になって、ユング心理学では、フロイトが言った無意識が、「個人無意識」と「普遍無意識」というふうに分けられて、個人レベルでも非常に深い意識があり、さらに個人というレベルを超えて、民族とか国家とか、あるいは人類とか、そういうレベルの共有する無意識がある、というのが「普遍無意識」という考えなんですけれども、これを見つめるというのは不可能に近いことなんですけども、部分的に無意識と対話をするのが現代の心理療法ですよね。私たち「トラウマがある」とか言いますけれども、まさに「トラウマ」というのは無意識のレベルに入って心の傷のことですよね。それを見つめましょう、というのがサイコセラピー(psychotherapy:心理療法)ですね。それでだんだん自分の中の無意識と対話をすることによって、私たちは精神のバランスを取り戻すことができるわけですよ。

 
草柳: 
先ほどの親鸞の言葉に関連していえば、そうやって無意識の世界と向き合えば向き合うほど、親鸞の言葉のように、自分を責め苛んでしまう、ということに繋がっていきませんか。でもそれがないとダメなんですか。

 
町田: 
そうです。そのプロセスでは返って心理療法なんか受ければ落ち込みます。プロセスとしては。そこから復活してこなければいかんわけですが、仏教の方でも「唯識学」というものがありますが、これは仏教の心理学のことです。唯識ではユングが言った「個人無意識」は「末那識(まなしき)」と呼ばれています。これは自我―人間の我の核心にある意識ですね。「末那識(まなしき)」と言います。そしてさらに深い人間のもっとも深刻な迷いというか、無明(むみょう)というか、煩悩ですよね。これを「阿頼耶識(あらやしき)」と呼んでいます。人間の意識を八つに分けるものですから、「阿頼耶識(あらやしき)」は「第八識」とも呼ばれているんですが、これがあるが故に我々はカルマ(業)から逃れられないし、同じ過ちを繰り返してしまうし、不幸な道を図らずも歩んでしまう、と。この「阿頼耶識(あらやしき)」があるが故に人間は救われない、と。こういうふうに仏教の唯識では言うわけですが、ただそこには救いがありまして、ユングの場合は無意識と意識の統合(インテグレーション:integration)というんですね。その意識と無意識の対話を繰り返すことによって精神のバランスが回復されて、人格がだんだん円熟してくる、というふうにいうんですけれども、仏教の方では、さっきの非常に厄介な煩悩の泉である「阿頼耶識」が、あることを契機に「大円鏡智(だいえんきょうち)」に変わるというんですね。「大円鏡智」というのは大きな円い円かな鏡のような智慧という。お悟りの意識ですよ。もっとも厄介などす黒い否定的記憶が光り輝く悟りの智慧になるというわけですよ。これが唯識の面白いところですね。法然さんの場合は、それをお念仏でやってのけたわけですね。