「偽」苦労人生(再録)
ミチクサ(散歩、都市論etc)
- カネを使うと、動きだす
おカネを、使わないでいると、ずーっと使わないでいられるような気がします。
この感覚はお酒と似ているように思います。
僕らはコンビニ世代なので、毎日毎日だらだらとカネを使うのがアタリマエのような感覚があります。
感覚というか、罪悪感がないといいますか。。
そういえば田舎で育ったコドモの頃、僕らは(家族も)ほとんどおカネを使いませんでした。
ウチはふつうの中流だったと思います。(その時代の、中流)
でも、悪くいえば、そうとうケチケチしていました。
買い物が、基本、週一なんですよね。スーパーに買出し。
まとめ買いはやはり、安上がりなんでしょうね。
母親は、1週間の献立をおおよそ決めていたのでしょう。
いちばんダラダラとカネを使うのは、僕、というか、コドモですよね、中・高ぐらいの。
コンビニにタムロするようになるので、。
でもおカネって結局、毎日使う必要もギムもないのですよね。
コンビニ世代は、それに気づくのが遅い。。
でも、何かの拍子にぽんっと、財布からカネを抜き取ると。。そこから怒涛のごとく再開される。だらだら買いが。
すぐに、元に戻ってしまいます。
これも、酒と似ていますねえ。。
ところで、ある日ぽんっと、カードでまとまった額の買い物をすると。。そこからカード払いが連続するような気がしますね。
これは、なぜなのでしょう?
再録
私の中では、予想外で盛り上がっているこのトピックです。。
なぜ自分が「苦労は今しておかなければならない」と思っているか、それは、「my心の履歴書」を充実させたいからである、ということになりました。
ということは、特に「苦労」でなくとも、「経験」でよいのではないか、という意見もあります。
? 昨日の結論は間違っている?
矢沢永吉さんの逸話の、上京するときは「夜汽車でなければならなかった」というのは、上京するときに特急電車を使わないことによって「苦労」の1ページを刻まなければならないから、という解釈です。
「my心の履歴書」を充実させたい、のではなくて、「my心の履歴書」には苦労をしたっぽい経歴を「それなりに」刻み込みたい、ということでしょう。
おおよそ合っていますが微妙なニュアンスが異なります。
昔の「自分について」で、中学校の頃はよかった、といったような書き出しをしていますが、記憶をたどると高1のときから、この思いでバイトを始めたようです。もちろんその頃は「苦労をしなければ」という思いが具体的に言葉になって現れることはありませんでしたが、今思うと「苦労」と思えるのです。
そのバイトは全く無用で、する必要のないものでした。
不良が集まる喫茶店兼ゲームセンターみたいなところで、私のような弱気な人間では勤まるわけもなく。。全く場違いでした。なぜ自分がそこのバイトの面接に行ったのか、すらわかりませんし、おぼえていません。
土日のみでしたが、結局3ヶ月ぐらいで辞めてしまったのだと思います。バイトの本来の目的である「お金」も、ほとんど稼げませんでした。それどころか、最後の勤め分のいくらかは、バイト代を取りにいってないはずです。
が、自分の判断基準の中で、これを「苦労」と認定した時点で、無用な行動が、無用ではなくなるわけです。
ここには、親や他人の判断基準は入ってきません。他人には自分がバイトしているのは間違いなく無用な行為とうつっていましたが、自分が満足すればそれでよいのです。
こうして自分の「偽」苦労人生が始まりました。。
ここまで考えると、「苦労をしなければ」と思い続けている時期(高校〜現在)は、幸せではないということになり、この考えを捨てきれたときに「幸せだな〜」としみじみ思える日がくるのでしょうか。
果たしてそうだろうか。。