元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

否定派の生き様を見せてほしい

本来の日記部分

  • 仕事

礼儀のなってない「上から目線」メール対応。今回は、スルーせずまともに反論。
まずは自分が上から目線であることにお気づきください。。

こうありたいまたは反面教師

  • 否定派の生き様を見せてほしい

シンプルで質素でかつ遠出しない(カンタンにいえば)という「新庶民」の生き方を否定し、「非日常」に生きるのであれば、その成果、つまり、私がうらやましく感じるような「生き様」を見せてほしいのです。

何度も書いていますが、選ばれたヒトであれば「非日常」に生きることはできます。
ただし、選ばれたヒト、というのはほとんどいません。

私がそういう生き方を標榜しているのは、それが「きわめてベストに近いベターな」生き方だと思っているだけで、それ以上に満足感を得られる生き方も、あるのかもしれません。

ですが、少なくとも、ビジネスにプライベートに「飛び回っている」ヒトで「幸せそう」なヒトに会ったことはありません。「イソガシそう」と感じることはありますが。。

生活の地盤がフラついているように感じるのです。それを自覚しているからこそ飛び回って忘れようとしているのか、飛び回っているから地盤がフラついてしまったのか。。
それはわからないのですが。

「ゆったり」というのが「幸せ」には大きな要素になると思っているのですね、自分は。

再録

たぶん何かの雑誌に書いてあったのですが、ふと思い出しました。

他人から相談を受けたとき、相手はすでに答えは固まっている、こちらが真剣に考えてあげていろいろ提案するのはムダ、というやつです。

他人から「相談がある」といわれて割く貴重な時間は全くの無駄です。そして、他人の悩みに対して真剣に考える労力も無駄です。

たまに「お金がない」とかいわれますし。。 他人の相談って、自分に不利益があることを「頼みにくる」という意味合いもあります。しかも多くの場合無償奉仕を要求するのです。

最初は下手に出てくるのに、相談事にのってもらった途端に態度がでかくなったりします。

この国では真面目な人ほど馬鹿を見るというはこのあたりにもあらわれているのでしょう。

ひょいひょいと引き受けてしまって損害を蒙るぐらいであれば(借金の保証人になってしまう、とか) 友人知人なんていなくともよいと思うんですよね。

自分の周りにいる人達は、礼節を知る、「人様に迷惑をかけちゃいけない」というしつけのもとに育った人だけで十分です。利益をもたらさなくともよいので。

すべてビジネスにしてしまえばいいと思うのです。要は近しい中であっても対価を払うということです。なぜこれが「いやらしい」考えなのか、わかりません。人の時間というのは、本当に貴重なものです。時間を割いて(プラス若干の苦痛を伴うこともある)何かをしてほしい、という考え、ちょっとしたお願いごとが、どれほど重大か、ということをわかっている人はあまりいないようです。

何かお願いして、対価としてご飯をおごる、というのはよく見る光景ですが、お金でいいと思います。それと、そういうときにおごる金額はたぶん安すぎます。

お金というのは人の生活を豊かにするために存在するのですから、それをお願い事の対価として渡すのがなぜいけないのでしょうか。子供には小遣いを軽く渡すのですから。

自分が「掃き清める」という行為に最近興味を持ち、ハマっている理由は、その行為により「無心」に近づけるような気がするからです。

そして、その「掃き清める」機会を与えたもう存在に感謝せよ、と。落ち葉を掃くのであれば、自然に対して。ゴミをポイ捨てする人間にさえも感謝の念を示せ、と。

悪意があろうがなかろうが、地面に物体が落ちれば落ちるほど、掃き清めなければならない「機会」をどんどん与えてもらえる。そして、その機会を得、一心不乱に掃けば掃くほど、「無」に近づくことができる。

まだそこまでの境地には到達していませんが。。

で、実際問題、一心不乱に掃き清めているときに「無」の状態に近づけている「ような気がしている」わけだから、その状態とはナンなのか、をもう少し突き詰めてゆけばよいのだと思います。

突き詰めるためには、一側面としては体験、行動で(つまり、この「掃く」という行為そのものを続けること)もう一側面は、学術的なもの、つまり、読書とか、勉強により。

で、「勉強」であればその「無」を知るためにもっとも有用な手段が今、「禅」なのではないかと考えているところなのです。座禅を組む、という「ファッション」ではなくて、「禅の思想」ですね。

確かに(略)
集合的無意識」に導かれているような感触は、あるのです。(こういう話を他人にすると「宗教がかっている」とかいわれちゃうのですが。。 誰もがある一瞬にそういう感じを持つことはあるはずです)


でも、前にも日記に書いたのかもしれないけど、結局「答え」というのは自分で見つけたいのです。

昨日の日記に引用しましたとおり、臨済は無意識の境で何を悟ったのかといえば「仏法などそう大したことではなかった」ということでした。

悟ったときには、その「悟り」にたどりつくまでの手法、手段が「小さくみえる」ということなのでしょうか。

このあたりにヒントはあるはずなのです。