酔っ払いになるまい
本来の日記部分
さきほどまではてなにログインできませんでしたね。。
- 仕事
今日は有意義な面談。先日は、傍若無人な、妙な「オレは何十年もサラリーマンをやってきた!」というオジサンのせいでサイアクでしたが。。
こうありたいまたは反面教師
- 酔っ払いが狙われる
夜の商売というのが、酔っ払いが気が大きくなったところ(のフトコロ)を狙っているのであれば、それには抗いたいものです。であればまず、酔っ払わない。そこから始めないといけません。
そして、夜、盛り場には繰り出さないように。。
たとえば寿司屋、ステーキ屋などは、夜の価格は昼の10倍です。まあ夜のほうが良質な品を出している、というのもあるのでしょう。
昼のランチを夜にそのまま出したら、価格設定は5倍ぐらいになるでしょうか。プラス、お酒代、あとはサービス料など。(そのサービス料に見合うサービスを受けられるわけでもないのですが。。)
これも、夜になると気が大きくなる人間の特性(?)を狙われているわけですね。
そろそろこの商売に引っかかることに「馬鹿らしい」と思いませんか? といいたいのです。
夜、盛り場で酔っ払わないためにはふだんの生活でストレスをためないようにしなければならない。そこまで生活を変えてゆかなければなりません。(自分は)
今は、その「生活を変える」というチャレンジというか変化が、楽しいのです。「酔っ払う」よりも。
おカネにも余裕ができるし、一石二鳥ではないですか。
「それができたら苦労しない」と考えている方、私も数年前はそうでした。でも、いろいろなことを「馬鹿らしい」と強く思えば、やめられます。
それと、「残りの人生、何に時間を割くか」と考え始めれば、自然とムダなことはやらないようになってゆきます。
まずは、どなたであっても残人生は有限なのだと考えるところから、始まります。
再録
本日食事をしたお店では、結構な価格帯であるにも関わらず満席で、女性が非常に多く、赤坂のOLさんのパワーを垣間見たような気がしました。
バブルの頃から不景気の時期を経て、今までずっと、over¥1,500ぐらいの洋食系(フレンチ、イタリアン含)ランチには大量の若い女性の姿が見られます。これは、変わっていません。ただし、over¥3,000ぐらいになると、OLさんは極端に減り、年配のビジネスマンの割合が増えます。ただ、最近の新しいバブルの時代になってから、ノータイの新興勢力(以前「青年実業家」と呼ばれた層)が幅を利かせているといわれていますが、自分はそう感じていません。なぜならば、「彼らはお金を持っているがコンビニも吉野屋も好き」という世代だからで、敷居の高い店を敬遠する傾向にあるからだと思われます。
ふつうのOLさんがover¥1,500のランチに連日通えるのは、もちろん、自宅だからです。自宅通いでない方もそれに影響を受け、月一ぐらいの「自分へのごほうびランチ」で結構なところに通ったりしています。
そして、over¥3,000ぐらいのランチに出没するサラリーマンが、相当な割合で自腹ではなく経費だと考えると、資本主義という側面での人の価値というのは、個人が「いくら稼げるか」ではなくて、いかような手段を用いてでも「どうやって可処分所得を得ることができるか」で決まるのだなあ、という思いを強くしました。
手取りに対する可処分所得率は、自宅通勤のOLさんで75%、中所得者層の家族を持つ男性が15%ぐらいだと思います。この差はすごいと思います。
ただ、赤坂界隈には、それらの枠にははまらないよくわからない層がごろごろしています。そのような方々の生活をぜひのぞいてみたいものです。
自分は、「DIY」(Do It Yourself)的な考え方に対して「クソクラエ」だと考えています。
(キタナい表現ですみませんが)
根底にあるのは、「アウトドアライフ」的な考え方に対する強烈な違和感と同じです。
DIYを高らかに謳っているヒトが、ナイフで鉛筆を削りますか?
DIYといいながら、余計なモノを作り出したりしていませんか? 「地球に優しくない」クリエイティビティを発揮していないか?
環境を考えたらもっとも良いのは「おとなしくしてる」ことです。日用大工の延長で、自分のハンパなクリエイティビティのはけ口を「作品(?)」にぶつけているにすぎない。
つまり、「DIY」をメンテナンス、維持に適用していないように思えるのです。
それ以前に、ナイフで鉛筆を削るどころか、鉛筆削りで鉛筆を削ることすらスルーしてシャーペンを使っているようなヒトたちがDIYの担い手なのでしょう。
どうもその、わざわざ不便になりにいきましょう、みたいな姿勢がイマイチ。。
これは、自分の、「昭和ノスタルジーに対する嫌悪感」ともつながってきますね。
なんで鉛筆の話を持ち出すかというと、自分はコドモの頃、ぶきっちょで、ナイフで鉛筆をうまくけずれなかったのです。。
その怨念再び。。 というわけでもないのですが、ナイフをうまく扱えないがために、ナイフに対しては思いっきり恐怖の感情があり、それが今も引きずっています。
ぶきっちょであることにコンプレックスを持っていたのは間違いないのですが、「鉛筆削り」という文明の利器があるのになぜナイフで鉛筆を削らなければならないのか? といつも思っていました。
親とか世の中があがめたてまつっているアメリカ様は、すべてに対して合理的で、世の中を便利に便利にしようとしているのだから、ゼッタイにナイフで鉛筆なんか削らない、と。
今、そこに、自分の机には「鉛筆削り」様が鎮座しているのだからそれでいいのではないか、と。
ナイフで鉛筆を削るという手段は、バックアップとしておぼえておいて損はありません。それはわかるのですが、ぶきっちょでそれができない子どもに対して、コンプレックスを植えつける必要までは全くないのです。
器用にそれができる子はエラい、できない子は「エラくない」わけではなくて「ふつう」なのですよ。それを責められる理由はどこにもない。