元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

時評 戦争を知らない 日本語軽視のツケ

本来の日記部分

  • 体調

薄着で長時間外出したので、ハナミズが。。
昼、暖かくなると天気予報で見たので、上着をはおらなかったのですが失敗。私としたことが。。

そういえばもう10月も下旬なのでした。それにしては薄着でした。



人生観、のような、思想の話

  • 日本語

今、日本が迷いの時期に入っているのは、それは日本語を軽視して英語を重視しているからですね。
戦後からずっと続いてきた、そのツケがまわってきたのです。個人的には、そのツケが「やっとまわってきたか」と考えています。ちょっと遅すぎ。。の感もありますが、良きにしろ悪しきにしろ「文化」が浸透するのにはけっこう時間がかかるものなのですね。

もっともっと、いくところまでいってほしいですね。今の状態ではまだまだ、「庶民の総体」の「気付き」はやってきませんので。
言語が変貌しつつあるところからみえるのは、日本人は、自ら文化的に「侵略してくれ!」と、オープンに外国文化を受け入れてしまっていますし
(まるで「トラウマウェルカム!」の「神経症なりたがり」の「自律神経失調症予備軍」のヒトたちのようだ。。)
さらに、自分たちも自ら積極的に自国文化を捨て、外国文化を受け入れる形での文明の進化を選択しました。自らが外国の文化侵略に加担しているわけですね。言語の変容はその最たるものです。

私のこの感じ方は、右翼的でしょうか? 左右どちらにも振れていない、きわめてまっとうな憂国感情だと思いますが。。
憂国の念を抱くだけで右翼と言われる時代がありました。。(今は、世の中全体が「右傾化」しているそうで。。 そんなこともいわれなくなりましたが)

自国文化を捨てて「まで」オープンに外国文化を受け入れる、という姿勢が根本的に間違っているのです。
これほどまでにいわゆる「国際交流」が盛んになってきているのに、日本は「わが国」について外国人に語れない。。(「アメリカの属国になっている」とでもいえばいいのです と、考え始めたら右傾化なのでしょうかね。。)相手を知るよりもまず自分たちのことを知ることです。


ビートルズの、60年代に来日したときの日本人に対する「洗脳」は、ものすごいインパクトがありましたね。彼らは、万難を排してあの難しい時期、来日した甲斐があったというものでしょう。

ビートルズの来日の「おかげ」で、未だに「オレはビートルズをリアルタイムで聴いていた」と威張るオジサンがのさばっていられるのです。(ホントに「聴いていた」だけなのに。。)


日本人が、自分たちが迷うことなく、よりよく生きるためにはどうしたらよいか?、というのは「日本語」で考えることであり、そのための手法というのは先達の書物に無数に書かれています。
舶来の手法はほぼ、ダメです。役に立たない、とはいいませんが舶来の手法を優先するという考え方そのものが間違っているのです。




自分について

  • 時評

時評は好きではないんですよね。。 時評に追われることでホント、何年も(いや、10年以上)自分の「思考」をムダにしてきましたので。。
時評そのもの、というよりも、「時評を語っている自分」が好きではないのです。その言説が、あたかもオリジナルであるかのように。。実は昨日のテレビのニュースキャスターのコメントにちょっと自分の色をつけただけなのですが。

ニュースに対して自分の思考をオープンにしていると、次々と、自分の違和感アンテナにびんびん引っかかってくる事象が飛び込んできて(発信側も、あえてそういうニュースの「つくり」にしています)それに対して次々と、自動的にいろいろ考えてしまって、脳のキャパがいっぱいになってしまいます。

そしてそれが、どんどん日常会話のネタになってゆくわけで。。 たとえばビジネス・シーンにおいて、お客さんと話すときなどに話題豊富を装うために、時事問題とかはすべてチェックしなければならないものと信じ込んでいました。

これが、糸井重里さんがいうことろの「多忙は怠惰の隠れみの」状態です。もちろん、渦中にあるときにはそんなことに気付くこともなく。。

やがて、いい加減ニュースを追いかけるのはやめましたが、ニュースというのはこちらが求めなくとも飛び込んでくるもので(そのぐらいのインパクトのものだけが「ニュース」といえるかもしれません)、いちいちそれらに対してこれも時評だ(だから語る必要はない)、あれも時評だ、と考えていると。。結局黙ってしまいます。

そして、いつの間にか何も発しない自分に気付いた、と。。
発しないでいると、それはそれで、脳のキャパがいっぱいになってきてしまうのです。だから、どこかで発散しないといけない。
それが、私がネット上で日記をつけ始めた直接の理由です。
「発しない」とは、何もオピニオンがないわけではないのです。そして、「こいつはオピニオンを持っていない」と判断されると困るような状況が、ぽつぽつと発生してきました。

それまでは、宮沢賢治言うところの「ミンナニデクノボートヨバレ」でも、よかったのかもしれません。でもそうはいかなくなってきた、と。。
そういう時期だった、としかいいようがありませんが。。


でも実際は、「寡黙になる」とはいってもそれはただオピニオンを「発しない」だけであり、ビジネス・シーンにおいては真に寡黙ではいられません。
結局「時候のあいさつ」程度の毒にもならない上滑りする言葉だけで生きてゆくようになり、オピニオンを発しないストレスの反動により、ビジネス・シーンにおいてはけっこう上滑りするコトバだけで饒舌になってきました。結果的に、それはそれで訓練としてはよかったのかもしれません。

現在は、その饒舌は継続しつつも、それだけではよくないと感じ、時評以外のことについて、いろいろ他人と「語る」ようになりました。それは、相手を限定して。。
ほとんどの他人というのは時評を語りたいものなので、そうではないヒトを選ばないと、双方のためになりません。

「時評以外のこと」とは、ここの日記で書いているようなことです。マスコミの洗脳に対する危機感とか、早起きの効用とか、宗教、思想について、etc。。

自分の思考訓練の結果を、「スパーリングパートナー」にぶつけてみるという行為の大切さを、知りました。このようにネット上で書き出し(吐き出し)ているだけでは、思考が閉じていき、内省化する一方ですので。。

相手の「パンチ」も受けないといけません。それにどう反応するか、どう応酬するか、によって自分の思考がさらに磨かれてゆきますね。


幸いにも、その、限定した相手には、私の「スパーリング」は好評です。鎖国時代の日本が、独自の文化を醸成していったように、私の思索も情報を遮断することによりだいぶオリジナリティを増してきたようで、話がオモシロい、といわれます。
この評価は、私にとって最上のものです。

「スパーリング」がなぜ面白いかというと、互いに最低限の礼儀をわきまえているからですね。スパーリングパートナーには、そういうヒト、つまり、「いいオトナが!」の域はとっくに卒業している人間を選ばなければならないのです。それは、昨今では年齢はあまり関係なくなってきました。
残念ながら自分と同世代でも「いいオトナが!」がたくさんいます。。

そういうヒトがなぜ「卒業」できないかご存知ですか? いつも「時評」しか語っていないからですよ。時評について、コメンテイターの批評をなぞるのは「考えている」とはいえない。考えることを忘れてしまったからいつまでたってもコドモのまま真の思考能力が育たず、結果、「卒業」できない。

再録

ヒトは、自分の感情に素直に生きるべきではない

  • 20070616

(略)
快楽原則に「従う」というのは、あるがままを受け入れるというわけでは決してなく、「快」が連続する状態、だけを受け入れるような身体になってしまうわけですね。

人間が、もっとも幸せな状態というのは、生活の大部分が「快」でも「不快」でもなくて、たまに「快」があるような、そんな状態である、と思います。

「自分の感情に素直に」生きることができたり、「快」だけを追えるヒトというのは限られたヒト、選ばれたヒトですよね。おそらく、どの時代でも全人口の1000人に1人ぐらいじゃないんでしょうか。

でもそれは、特別に幸せな状態であるともいえない。不幸でもない。「幸せ」のなかのひとつの状態に過ぎないわけです。

1000人のうち999人は、1000人のうちの1人ではないのだから、「快」が連続する生活は、できないのです。できないにも関わらず、「快」が連続する状態だけを受け入れるような身体になってしまっている。。

これは、不幸ですね。ものすごく不幸です。

でも、そうなってしまったのは、そのヒトのせいではないのかもしれない。親であったり周囲であったり教育であったり、そのヒトに無用な(身の程知らずな)「万能感」あるいは「選民意識」を与えてしまったからだと思うのです。


ここまでは、平成を生きる現代人であるからには気付かないといけません。

なぜ、生活の大部分が「快」の状態よりも、生活の大部分が「ふつー」で、たまに「快」があるような状態のほうが幸福なのか。

(2)
日常をいかにストレスなきものにするか、(つまり、「ふつー」の状態にする)に腐心することが大事だと思います。

そのためには、余計なプライドを持たない。身の程をわきまえるのも大事です。

日常を「無」にして「快」を待つ。「無」のほうが「快」を呼び込みやすいような気がするんですよ。根拠はないのですが。。

そして、「不快」は「爽快」を呼びやすいような気がする、というのもわかる。

でも、大きく振れすぎだと思うのです。大きくマイナスにふれて、その後プラスにふれる。そういうジェットコースターのような生活は「幸せ」とはいえない。

かといって、日常で常に少しずつストレスをためている状況でたまに「快」があっても、それはそれでつまらない。

だから、日常を「無」にして「快」を待つべきなのではないか、と。

日常が「無」であれば「爽快」がほしいとは思わないのでしょうね。「爽快」は「不快」に振れる危険信号だということをわかってしまってるから。


(再録おわり)

後の、思想、宗教方面につながってゆく重要なことを、この時点で書いていますね。