元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

野球の夢 象牙の塔 日課の徹底(再録)

本来の日記部分

野球で、すごく大事な試合でエラーする。
自分は中学生。

今回ちょっと特殊だったのは、相手チームのコーチ、あるいはオーナが自分の父親だったこと。
試合開始前に相手ベンチからやけに聞きなれた声(父親の声)が聞こえてきて、少し驚く。

父親はなんとなく、態度が大きい。大きな声を上げて選手たちを仕切っている。

そのエラーというのがものすごく、ぶざまなというかカッコワルいもので。。

その後、チームメイトが「ムカシオマエは、同じようにものすごいファインプレーをした」みたいなことをいってくれる。つまり、格好は同じようにちょっとぶざまだったけど、前回はファインプレーだった、と。

せっかくフォローしてくれているのに、自分はイヤミ、あるいは暗に非難と感じてしまった。

自分はヘタだから、いつも、試合に使わないでくれ、と思っていた。ベンチにいるだけでもう十分、と。ベンチならヘマをすることもないし。。


この試合は中学のとき、実現されなかった好カード(?)だった。
ウチも強かったし相手も強かった。だから、大事な試合だったんだ。何十年という時を経て、ついに実現したから。
そして、何十年という時を経たにも関わらず、誰もがまだ中学生のままだった。

それと、自分にとっては、別の意味で重要というか。。
自分は、地域の公立中じゃない中学校に通っていて、その相手というのはまさに地域の中学だった。だから、相手は知ってるヤツばっか。

なんというか、自分の存在意義を賭けた戦いでもあった。




人生観、のような、思想の話

学者が学問に沈溺するのは別に特権ではありません。
だから、それを別にうらやましいとも思いません。

庶民は学問をする義務は本来ない。庶民は「地に足をつけた生活」をするのがまず第一の目的であって、すべてはそのためのもの。その第一の目的を達するために必要な学問だけを、「いいとこ取り」すればいいだけのハナシです。
学者は、それを供給してくれればよい。

企業は、庶民が「地に足をつけた生活」をするための「製品」「サービス」を供給してくれればそれでよい。
だから、企業は、庶民を惑わす、庶民を「身の程知らず」にさせる「製品」「サービス」は供給すべきではない。ホントウは。

庶民は、学問に沈溺してはいけない。身の程知らずになってはいけない。
アナタはそれ以上でもそれ以下でもない。「中流」を自認しているうちは。

中流を自認したくないんだったら、「大衆」というぬるま湯から自ら逸脱してください。そこから開ける「何か」があるでしょう。それは飛び出してみないとわかりませんよ。


ところで。。
庶民は学者を養う(税で)義務もないような気がしていますね。
なぜなら、「象牙の塔」には、今の日本を良い方向へドライブしてゆく推進力が皆無だからです。学者は腐っていますね。なぜなら、サラリーマンになっているからですよ。

誰か、複数のヒトが、同じようなことを書いていましたが。。
過去の文献、先達の思想を学生などに紹介するのが「サラリーマン学者」で、そういう人間が今、多すぎるようです。
「サラリーマン学者」は独自の解釈を生み出せない。ただの「秀才」にすぎないから。
脳内で思考を自由に飛躍させることができない人間は果たして「学者」ですか?


学者がサラリーマンになっているのは、学者自身を責められない。なぜなら、象牙の塔は今、ふつーの「就職先」に成り下がっているから。ふつーに就職してる、と思っているのですね。そこに疑いを持たない。

自分が思う「学者」像というのはもっとマッド・サイエンティストに近くて。。
一種の「芸術家」になってほしいんですよね。大学というのはパトロンにすぎない。小・中・高と異なるのは、学生に教えるのが本分ではないということ。

学者たちが、そういう「像」を自ら放棄してサラリーマンになり下がったからこそ、国からテコ入れされて、大学自体をまんまと企業化させられてしまったんですよ。

「大学はカネ食い虫だ」という資本主義の理窟に、学者連中が抗えなかった。でも、学者自体がサラリーマンを受け入れているのだから、抗えるはずもなかった。

再録・継続

  • my格言
    • 流され続けている人から見ると、流されない人は変化しているように見える。(20070301)
    • 「変わらないこと」は変わり続けながら見つければよい。(20070217)
    • 不安定な人生は、ハプニングのない安定した人生よりもつまらない。(20070517)

ヒトというのは、日々徹底して同じ日課を繰り返していたほうが、結局幸せになれるのではないか、と最近考え始めています。これは、確信に近いものです。(【重要】マーク)

たとえば、ヒトは絶対に寝なければなりませんが、そこで偽「個性」を発揮して「オレは寝ない」と高らかに宣言するヒトはいません。

寝ないヒトは究極の個性派だと思いますが。。自称「個性的なヒト」はここまで踏み込もうとはしませんね、当然。「できる範囲の」個性的にしかなりえません。

(ちょっと皮肉が入ってしまいました。。)

脱線しましたが、絶対に寝なければならないのであれば、徹底して同じ時間に寝て同じ時間に起きる。

そうすれば心身ともに健康になりますし、生活も規則正しいものに矯正されてゆきますし、何ら問題はありません。

ジャマになってくるのは、「不規則な生活をしたい」という欲求です。「不規則な生活」イコール「非日常」(今現在、私がキラっている概念です)であり、ヒトは、ある程度規則的な生活を続けると不規則な生活を渇望するものです。

そこを何とかして乗り切ればいいわけです。

規則正しい生活を続けることにより、その継続が少しずつ快感になってきますので、(経験済です)そうなればゴールはもうすぐです。

想像している「非日常」の楽しさのレベルよりも、実感(実践)している「規則正しい生活」のほうが楽しい、という確信を持てればいいのです。そうすればヒトは自然、快楽欲求のほうへ動きます。

とちらが楽しいか、どのような生活が楽しいか、というのは、マスコミや世間に決めてもらうものではなく自分の経験上から判断するものです。

仕事が忙しくてそんなことできるわけがないとか、休日ぐらいは夜更かしして、昼まで寝ていたいとか。。

そういうヒトは仕事を変えるべきですね。

できるかできないかは問題ではなく、そのぐらいの気概を持っていることが大事だ、ということです。「仕事が忙しくて〜」といっているヒトは仕事に完全に依存しており、常にどんな状況であってもそれを言い訳にしようと虎視眈々と狙っています。

仕事よりも「健康で文化的な最低限度の生活」のほうが大事なのですよ、当たり前のことですが。。

「健康で文化的な最低限度の生活」をするために仕事(お金を稼ぐ手段)が必要なんだよ、という反論が聞こえてきそうですが、それも自分は重々承知していますが、そのいたちごっこをどう整理するか、というのはまた別な課題ということで。。






ムカシ、庶民が皆質素な暮らしをしていた時代、誰も彼もが抑圧されていたでしょうか? 誰も彼もぱーっと遊びたがったでしょうか? ある程度「日常」に満足していませんでしたか? そこに「諦観」はあったか? ほとんどなかったのではないだろうか?

前にも書きましたが、結局皆が皆、「身の程をわきまえていた」と、思うのです。(【重要】マーク)


現在、オトナのヒトたちの多くは、昭和の日本にノスタルジーを感じているのでしょう? それはつまり、貧乏な時代への郷愁です。貧乏な時代とは、ライフスタイルの選択範囲が少ないということです。そして、食事のえり好みもできないということです。

それでもいい、あるいは、そのほうがいい、ということでしょう?


ところで、睡眠とか食事とか、生きてゆくのに絶対必要な行動以外の、「趣味」の域にはいるような活動も、徹底して規則的に、たとえば1日5分とかでも、やったほうがよさそうです。これは、最近日記に書き出しているとおりです。

もはや、現代人は多様化するライフスタイルへの適応、選択にうんざりしているのでしょう。情報が多すぎて。だから、選択が少なかった時代への羨望を感じているのでしょう。

私は、情報を遮断しているので全くうんざりしていませんが。。

情報を遮断し、ノウハウを与えられるのではなくて、どのようなライフスタイルを送ろうか、自ら主体的に考えて計画しているので、わくわく感すら感じているのです。


結局、生活に「リズム」をつくることが非常に大事だ、ということをいいたいんでしょうか。(私は)

日課/週課/月課/年課を設定することにより、日/週/月/年の生活のリズムをつくる。そうすると我々庶民の「幸せ感」がアップする。

「課」というコトバが悪いのかもしれませんね。「イベント」でもいいんですよ。それが日常に組み込まれているのであれば。


    • (つづき)ムカシの生活

ムカシのような規則正しい日常生活を送ろう、という話の続きで。。

でも、すべての生活をムカシのように戻したい、っていうわけでもなくて。。

皆が皆、同じように紅白歌合戦力道山のプロレスを見ているような世相もイヤだし。。

でも、世代間共通の「思い出」ができるのはいいのかもしれないですが。。 視聴率80%とか、どうも気持ち悪いです。

皆が皆、土曜が半ドンで日曜休みで、日曜のごった返している行楽地に同じように出かけて、へとへとになって帰ってきたり。。

これはまさに「よりぬきサザエさん」の世界。

「思い出」の話に戻ると、ムカシの、生活において選択が少ない時代は、皆が皆万博に行って、何とかパビリオンに何時間も行列して。。 で、それが世代間の共通体験になっているわけでしょう。その「体験の共通」というのは、必要なような気もしています。

視聴率が高かったといわれるテレビ番組は、コドモのころほぼ皆が見ていましたし。たとえばドリフとか。。

とはいっても、これだけ価値観が多様化している現在であっても、最大公約数的な共通体験は、変わらず皆持っているような気がしますね。

たとえば、ユーミン、サザンといったような。。

歳をとると妙な反抗気分がなくなり、ユーミン、サザンの「スタンダード」「歌謡曲」としての素晴らしさがわかってきます。そのベースとなるのはクオリティの高さなのでしょう。


今の時代は、ムカシの生活習慣の「良いとこどり」をできるわけです。それが我々に与えられた特権なわけで。

「豊かな生活の証」とでもいいましょうか。

オトナもコドモも、崩壊しつつある「規則正しい生活習慣」を取り戻すことこそが、高度資本主義社会における選択可能な「豊かな生活」、すなわち「個性」であると信じて疑ってないわけですね、自分は。

だからやってみたい(実際やっている)わけです。

(再録終わり)

長い。。
4ヶ月前時点での、自分の考えの一旦整理、みたいな内容ですね。

「方向性」みたいなものはここから始まっている、ともいえるでしょうか。。