元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

[新庶民]論(2)

人生観、のような、思想の話

  • [新庶民]論序章 (2)

以前、「テレビという名の怪物」というお題で書いたのですが。。

その「怪物」が、庶民の目を「偽世界」へ、「偽ワールドワイド」な方向へ向けさすのです。

テレビは「怪物」であるがゆえに世界中いたるところの映像を茶の間に、無料で配信することができる。

そしてその「怪物」は、日常に庶民の目を向けないよういざなう。「偽世界」含め、非日常の世界を演出しているわけですから。

テレビのせいで、常に非日常に横恋慕して、「自分はこんなもんじゃないはず」と、地に足を「つけられない」ヒトが増えてしまったんですよね。。
「偽国際人」といいましょうか。


ムカシから言われていることで、海外で「自分とは何か」「日本とは何か」を伝えることができ、議論をたたかわせてかつ相手の考えも尊重できる、といったようなことがデキるヒトが真の「国際人」なのであり、話しをして理解を深めるのが国際交流なわけですよね。
そのためには、世界に出る前に教養が必要なわけです。

観光地に「行く」だけ、そこでご当地に料理を食べ土産を買うだけでは国際人ではないし国際交流すらしていないのです。(現地のマーケットのヒトたちとちょっと会話したり、値切ったり値切られたりしただけで「国際交流」を気取ってはダメです)


地に足のついていない生活をしている人間が世界、あるいは天下国家を語っていたら「はあ?」と冷や水を浴びせてかまわないと思うのです。

とあるヒトが地に足がついた生活をしているかしていないかを判断するリトマス試験紙がずばり、私であるという自負がありまして。。
天下国家を語らず、テレビを見ず(ブラウン管が映す「世界」の動向から離れる)、日常を、そして「継続」を是とし、質素な生活をし、市井の生活の中に埋没して生きることにより、「慢性的な不満足感」から開放される、と。
それ以外にこの「欲望の泥沼」を抜け出す手段はないのだから、21世紀の庶民はそうあるべきだ、ということをカタったときに、「(そういう生き方って)ちっちゃくね?」といったような反応を示すヒトは、地に足がついた生活をしていませんし、慢性的な不満足感を感じていますし、私のような存在が出現すると、精神的基盤が「ゆらぐ」わけです。それが「ちっちゃくね?」という発言につながる。

そして、「それはたしかにそうなんだけれども、でも。。(海外旅行もいきまくりたいし家も欲しいし車もほしい)」というヒトは、その段階で問題ないと思います。市井に生きる、ということを「ちっちゃい」と思わないだけで十分なのです。

再録

  • モッタイナイ?

http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20070704
「もったいない」「いつか使うかも」ととっておいても、現代社会ではもう使いません。

つまり、いつか使う「かも」と考えた時点で、もう使わないと考えたほうがよい。ある時期に必ず使う、という確証があるのであれば別です。

だから、捨ててしまったほうがいいのです。生活をシンプルにしてゆくためには捨てるしかないのです。

生活をシンプルにする、というのは進化するということであってムカシに戻ることではないのです。

捨てたものを受ける側、つまり、ゴミ処理の分野も進化しているのです。



なんでも「もったいない」ととっておいて部屋がゴミ屋敷になるのと、なんでもかんでもぱっぱと捨ててしまって部屋がさっぱりしているのと、どちらが「民度が高い」でしょうか?

このご時世、「もったいない」意識をあまりに過剰に働かせすぎると、自分の居住スペースがガラクタで埋まってしまうようになってしまうのです。そういう世の中なのですよ。