元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

怒り 馬鹿にしてかつ「バカ」にしている 「根源的な闇」2

本来の日記部分

また例によって、というか、精神的に安息の日々が続いているなあと思うと途端に「甘ったれのオトナ」からの攻撃を受けます。そういうヒトからみれば、私のように表面上涼しい顔をして、生きている人間の存在が耐えられないのでしょう。「もっと困れ、わめけよ」みたいな。。 そして自分の尻拭いもきっちりやってね、と。。

それと、自分の生活リズムをFIXできないヒトは、毎日淡々と、同じリズムで生活している私のような人間に憎悪の念を起こすようですね。嫉妬羨望でとどめてくれればいいものを。。 なぜ放っておいてくれないのでしょうか。

こういうときは激しい怒りと脱力感にヤられてしまうので、自分の「思考」はぱたっと閉じてしまいます。そういう意味では大迷惑です。


とにかく、常にこの世は馬鹿らしい。。 涼しい顔をして生きようとすると、「あ、大丈夫なんだ」と調子に乗ってどんどん負荷をかけてくる。

そして「大変だ大変だ」とわめいている人間には負荷がかかってゆかない。なぜなら、そんな人間は「業」をこなすキャパシティは本来持っていないから、負荷をかけてもムダなのです。

これから「大変だ大変だ」とわめきながら生きていく人間がさらに増えてゆくのか。。 大して大変でもないのに。楽してるのに。


クサってますね。

人生観、のような、思想の話

  • 馬鹿にしてかつ「バカ」にしている

現代人にとって、教養、たしなみを身につけることは、残念ながら重要ではなくなってきました。

それは、教養、たしなみといったものが現代人に身についたから、ではありません。

読書のたとえですが。。
読書が他の娯楽と同じ「土俵」で競争にさらされていますね。
ムカシは、読書は庶民の唯一といっていいぐらいの娯楽であり、その娯楽でヒトビトは貪欲に知識を身につけていけました。まさに一石二鳥。

さらに、ムカシは勉強したい者だけが学校に行っていたわけですから、現代人と比べて知識と教養の吸収度合いが違ったわけです。


今の娯楽というのは要はヒマつぶしであって、ひとときの享楽という基準では、読書はおそらく他のほとんどのテクノロジーを駆使した娯楽には勝てません。

そして致命的なのは、現代社会の娯楽では、教育水準の向上により半強制的に得た知識を教養に昇華させることなど望むことすら間違っていますから、つまり、今の日本人は、せっかく得た知識をヒマつぶしによりクサらせてドブに捨てていることになります。

一方でドブに捨てながら、もう一方では新しい知識の獲得を貪欲に望む。。(セカンドスクールとか「駅前留学」とか)
この愚かなマッチポンプを実践しているヒトが、人生において通奏低音としての不満足感を常に感じている「層」になります。


現代人は、これだけテクノロジーを発展させておきながら、教養をスムースに身につけることができる「装置」を未だに発明していない。これはなぜなのか?

コンピュータで教養を身につけられると思ったら、大間違いだというのは、まさか共通理解としてありますよね。

なぜか、といえば、その必要がないから、なんですね。なぜその必要がないのか、を考えてゆくのはムズカしいのですが。。

「教養の獲得よりもヒマつぶしのほうが優先されている」という現実を顕わにすることがまず大事。


とてもヒニクなことに、ゲームだったり、娯楽としてのテレビのコンテンツを作る側の人間が、人間的に魅力があり、教養にあふれていたりします。この事実にも目を背けてはなりません。

そういう人間が集まって、なぜか庶民を教養から遠ざける娯楽を麻薬的に広めているのはなぜか。ホント、なぜなんでしょうね。。 儲かるから、というそれだけのモチベーションではないはずなのです。
作る側が、庶民を「バカ」にしている(「馬鹿にしてる」とは違いますよ)ことに対する反省は、皆無とみえます。それどころか、庶民を「馬鹿にしてる」感がありありとみえますね。


コトバの定義のハナシですが、本当の庶民ではなくて、よく選挙で「無党派層」と呼ばれる、地に足がついていない層が、ある程度の多数派として存在するらしいのですが、実は、この国を「マワしている」ヒトたちがことごとく馬鹿にしてるのはこの層なのですね。

馬鹿にしてかつ「バカ」にしている。(ダジャレですが。。)無教養から脱皮しないよう、その「層」が気付かないよう、狡猾に抑え付けている。


まず、このことに気付いて立腹してみないことには。。

立腹してどうするか、というと、「教養」というバクゼンとしたものを身につけて、支配する側と対等に対峙するのです。
独りで向かってゆくという気概を持つこと。それは、キモチだけでもいいのです。


その「対峙」する手段を、この日記ではとっちらかしてはいますが、少しずつ書いているつもりなのです。

死、あるいは宗教に近い話

  • またまた「根源的な闇」「物語」について2

ところで、一般的な夢というのは、登場人物はほぼその本人の国のコトバでしゃべっている時点で、非常に現実世界に近いところにあります。「意識下」といってもよいでしょう。

ところで。。「意識」「意識下」の話でいえば、昨今は交通機関やメディアの発達により、地球の裏側と「イメージ」を共有したりすることが極めてイージーになっています。


ハナシ脱線しますが、youtubeなどは、全世界的にイメージを共有してゆくためのキラーアプリになり得る可能性を秘めています。googleおそるべし、といったところですが、googleこそが確かに少しずつ、意識的に「神」の領域に近づいている感はありますから、超近代の一神教にはなりうるかもしれませんね。


意識上でイメージを共有したいというのは全人類の根源的な欲求だったのか。。
「根源的な闇」からイメージを取り出す(あるいは「連れ戻す」?)のが、祈祷師などの選ばれた人間だったのだとすれば、誰もが「世界」を共有できる手段を、選ばれない人間が欲するのは当然といえば当然でしょうか。

その欲望の結実として、現代社会では衛星生中継で「世界の果て」を共有できるようになり、そこには光の速さでメールが届きます。そしていずれはリアルタイムで、(双方が望めば)テレビ電話による会話ができるようになるでしょう。

それの良し悪しというのは、論を待たず、人類にとってはとても良かったはず。なぜなら、それが人類が望んでいたことだからだよ。

いや、「人類」というのは大仰なんだな。。 望んでいたのは一部の産業革命を経験した国に限られるから。
未開民族はそんなものは欲しくもなかったのでしょう。


ただ、意識上で誰もが「世界」を共有できつつある昨今でも、意識下の、無意識のさらに下に広がっている共有の「世界」、ここで書いている「根源的な闇」へアクセスしたい、という需要は未だにあります。
それは特に、臨床心理学あるいは「セラピー」などの世界で。

村上春樹氏の「ねじまき鳥〜」に出てくる「壁抜け」の技術のような。。


ヒトは果たして「根源的な闇」すら支配することはできるのか?
などと一瞬考えてしまいますが、それが愚問であることは明らかです。

ヒトは自分の認識している範囲しか自分の「モノ」にすることはできない。
その「認識している範囲」は可変ですが、生来決まっているキャパシティが大部分です。


。。このハナシ、もっと続くかな?

自分について

  • アタマでっかち2

自分の「トラウマ」(コトバは間違っているかもしれません)としてあるのは、
自分は勉強をしてれば成績が良かったのですが、勉強をしないと途端に成績が下がる、という中高時代。。

今考えればそんなのアタリマエだろうというハナシですが、実際、勉強をしていなくても成績が良いヒトは、いますね。
自分がそういうふう(理想)になれない、という焦燥感。。 比較対象がそもそも間違っているのですが。。

自分の、あまりの「ふつー」さ、凡人さ加減に、悩んでいたのですね。若気の至りで。。 そんなことで悩まなくともいいのに。


ところで今となれば、なぜ自分が、たとえば学校の授業を聞いてもスッとアタマに入ってこなかったか、というのはわかっています。それは絶対的に読書量が足りなかったからです。読解力がまったく追いついていなかった。(【重要】マーク)