元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

アタマでっかち 根源的な闇と物語 コドモの発想 著名主義

人生観、のような、思想の話

  • コドモの発想

小学校に上がる前の息子が、相当親馬鹿が入ってはいますが、コワい(末恐ろしい?)ことを口走っていました。

突然、「ホントの世界にようこそ!」と言いました。
何の前後の脈絡もなく。。 何か、誰かの口ぶりのマネでもなく。。

自分は、その発言の意図を知りたかったので「ホントの世界ってどこ?」と聞いてみましたが、それは「日本」のことみたいです。彼にとっては「日本」が「ホントの世界」らしい。テレビに映っている外国は、海外旅行をしたことのある某国をのぞいては、「ホントの世界」ではない。

でも逆に言えば、外国であっても行けば、その日から「ホントの世界」に仲間入りする。

そして日本は、行ったことがないところでもホントの世界らしいですね。日本人がいて、日本語を話していれば。
彼は日本のほとんどの土地は行ったことがない。でも「日本」が「ホントの世界」。


何か、重要な示唆が含まれているような気がしてならないのですが。

  • 著名主義

ところで。。なぜヒトは、アカの他人のアドバイスで物事を決めてしまえるのでしょうか?

根本のところのきわめて個人的な疑問です。私は、他人のアドバイスを鵜呑みにするのはあまりにリスキーなので、しません。

でも、カネを払ってまで他人のアドバイスを聞いて、そのまま受け入れたりしますね。

間接的ならば、いいのです。たとえばあるヒトの考え方が書かれてある本を読んで、それを咀嚼して自分のモノにする、というのは。それをそのままマネするのはどうかな、と思ってしまいますが。。でも、あまりにそのヒトの生き方に感動したのであればそれもいいのかも。。 でもその「熱狂」は、とてもキケンですよね。

そう、あまりにも無自覚に、あまりにも警戒心なしに、他人の考えを受け入れるヒトが多すぎなのですよね。
権威主義ならぬ「著名主義」といいますか。。 著名なヒトの言い分であればそれは正しいのだろう、と。


そうか、だから庶民のオピニオンは画一化されてゆくのか。。 それは「誰か」の思うツボなのに。

「こうありたい」または反面教師

  • 「世へ出る」手段

派手なことをやらかして事件沙汰になるのは、「見られている」とう意識からでしょうか?
無意識では、ワイドショー沙汰になりたいからそういう破廉恥な行為に及ぶのではないか、と。
つまり、有名になりたい一環として。

自分は天性のものがあるわけでもなく、容姿が素晴らしいわけでもなく、努力を継続できるわけでもなく、立派なこと、良い方面で有名にはなれない。じゃあいいや、と破れかぶれで、派手に「悪いほう」に走れば一発で有名にはなれる。もちろん、意識下の考えということですが。

とにかく「有名になること」至上主義の究極というか。。
ここまでキてるような気がしますね。。

  • 「無理難題をふっかける」

「無理難題をふっかける」という意味ではヤ○ザ並のヒト、というか人種を知っています。

それは、常に、文句の矛先を用意しておく、ということ。ゼッタイに、不満足感から脱却しない、と思いきや、不満足感を常に自分でセットする。ちょうど、公衆トイレで、トイレットペーパーがなくなって、抜くと、上からストンと次のが落ちてくるように。

いつでもどこでも、「無理難題」をココロに持っている。
何かひとつの問題が解決したとしても、次がある。
「自分が世の中に対して不満足な理由」を常に携帯していないと、「負け」だと感じるらしいのです。

それじゃあ、不満足感が払拭されずに人生がツマラナイと感じるのも当然だなあ、と。。
こういうヒトは「ではどういう状態になれば満足か?」のビジョンを持っていない。どころか持っていないのが当然と考えています。「満足してしまったら人生終わり」なのですから。。

高度成長期だったらそういう考え方もアリだったかもしれませんね。


ヒトは確かに、「無理難題」をココロにたくさん持っています。が、でもそれを常に表面上においておく必要はないのです。

具体的には、もっともわかりやすいのは物欲でしょうね。いつでもどこでも、「アレが欲しいコレが欲しい」をココロの表面にセットしてある。「アレ」を買うと瞬間的に「コレ」が一番にくる。


ちょっとうまくまとまりませんので、寝かせてみましょう。

死、あるいは宗教に近い話

  • 比較宗教学

学生時代に、比較宗教学を学ぶのは必須でしょうね。理想は。
世界史というのは、うっすらと比較宗教学のようなものですね。もっとそういう色を濃くしてもよいと思います。

同じように日本史は神道仏教学の色を濃くしてもいいと思うのですが。。ものすごいクレームがくるんだろうな。
結局新興シューキョウの批判になってしまうから。


たとえば、なぜキリスト教圏のヒトたちとは考え方が合わないのか? という疑問に陥ったときに宗教からアプローチするヒトは今、いないでしょう。その素地がないから。


宗教を学んだからといって、結果として熱狂的に信仰するとは限らないんですよね。

  • またまた「根源的な闇」「物語」について

「物語」を「根源的な闇」から取り出すというハナシ。。 ここ1ヶ月ぐらいずっと自分のメイントピックのひとつとしてあり続けていますね。

神話なり民間伝承なりが、はるか遠い国と類似性が見られる、という事実について。
国土、気候、文化、言語などが違うにも関わらず「物語」が似てくるということ。
ということは、その「物語」は同じ「ところ」からやってきたという結論に達しても何ら不思議はありません。それは「時空」を超えたどこか。

そこはどこか、といえば、おおよそ、意識の下の、無意識のさらに下あたり、と言われており、自分は村上春樹氏のパクりでそこを「根源的な闇」と呼んでいます。仏教的にはアラヤ識とか呼ぶのかもしれませんが。。自分は「闇」のほうが好きです。

その闇は、人類に共通の「ところ」であって、世界中の誰もが、どこからでも、どこまでも「降りて」さえゆけば、たどりつくことができる共通の「スペース」(?)ですが、ここにたどりつける人間はどうやら限られているようです。

「ここ」にはおそらく、昨今「DNAの記憶」などと言われているモノが、イメージとしてうごめいているのだと推測されます。誰かが書いていましたが、「ここ」は静的に存在しているのではなくて、常にイメージが湧き出ている泉のようなところらしい。

そこまで「降りて」いけたもの限定ですが、そこからはあらゆるイメージを得ることができ、そこから「戻ってきた」人間は、その国の言葉でイメージを伝承してゆきます。ムカシは「そこ」に降りていきやすかったのか、そうでなかったのか、それはわかりませんが、とにかく降りてゆくのは祈祷師のような選ばれたヒトであったことは間違いないでしょう。

そして、各国で少しずつ伝承の内容が異なってくるというのは、やはりその国、地域の文化のフィルターを通過せざるを得ないからでしょうね。
たとえば犬の鳴き声を日本では「ワン」と感じるのに英語圏では"bow wow"と感じるがごとく。。(違うかな)


河合隼雄さんは、源氏物語の頃はそれはもうふつうに、霊的なモノは生活に溶け込んでいたはずだ、と書かれています。古典における霊的描写はおそらく書いた人間にとっては「リアル」だったのであろう、と。
自分もそうだと思います。

自分について

  • アタマでっかち

現在自分が、この時点から「本」のほうへ向かっても、もう、ただの「アタマでっかち」にはならないだろうな、というか。。「そろそろいいかな?」という気分はあると思いますね。

若い時分は、周囲にはびこる「アタマでっかち」さんたちを見ているとホント、腹立たしかったので。。(今はそんなことはありません)
その「反面教師」が、今の自分の行動様式(「フィールド・ワーク」重視)を確立した、といっても過言ではないわけです。

そろそろ、フィールド・ワークに比してアタマ(脳)のほうがヒンジャクになってきたかな、という気がしているのです。
こういうときなぜか、中村とうようサンのハナシが思い出されます。音楽を聴く素養としては、その国の歴史などを知ることも大事、という。

思想的にもっと深いところに行きたい、というのがあって、そう考えるのなら遠慮なく行けばいーじゃん、と。あくまで「市井」で、生活基盤が確立しているところで、現実逃避にならずに、思想的に深みに行こうとするのが何が悪いのか、と。
そんなのゼンゼン、アタマでっかちではないじゃん、と。

ところで自分は「霞を食って生きる」という状態、そういうヒト(それを半ば誇りに感じているヒト)が大キライなんですよね。


自分はすごく、「アタマがよくなりたい」と思っていて、それは知識と教養の中間地点あたりをイメージしていますが、先日「あ、そっか。。」とひらめいたのは。。
そういえば自分は今でも、「アタマがよくなりたい」と考えているなあ、と。。
じゃあ、本読めばいーじゃん! と。何と短絡的かつ的確な発想。。

だから、実践しているわけですが。。 前にも書きましたがフィールド・ワークはもう足りていると感じているので。。
いろいろなやりたいこと、なりたいもの、の中の最高峰のひとつに位置づけられるのが、この漠然とした「アタマがよくなりたい!」である、という再認識。

それは、外食でおいしいものを食べたい、なんかよりも遥かに上をゆくものでした。

「アタマがよくなりたい」というのは、世の中のことを「誰よりもわかりたい」ということですね。自分にとっては。
「仕組み」を「わかる」だけではないのだ、ということ。もっと先の何か。

抜粋・紹介

こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫)

こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫)

外国人のセラピストに日本人のクライエントが、「『こんなにつらかったら、私、死んだほうがましです』とよく言う」という話で。。
この甘えの究極ともいえる「脅迫」に対しては、ぜひ、脅迫罪を適用してほしいものです。

これは、立派な脅迫ではないのですか? 

「井筒 (略)十三世紀になると、もっと積極的に哲学と神秘主義とを別々にしておいてはいけない、一緒にしなくてはだめだということを、イブン・アラビーとスフラワルディーの二人が口をそろえて強調するような事態にまで進んでくるんですね。哲学の訓練を経ない神秘家なんていうのは酔っ払いにすぎないし、他方、神秘主義的体験のない哲学者なんていうものは、概念的にしかものを考えることができない明き盲みたいな合理主義者であって、存在の真相などわかりっこない、という意見をはっきり表明するに至る。(略)」

「井筒 (略)人間にとっての現実、リアリティーというものが問題なんじゃないかと思いますが。イスラーム神秘主義でも一番初めの状態、つまり日常的意識が正常に働いている状態を目覚めた状態といって、神秘的に上まで上がっていった状態を酔った状態、酔い心地、スクルというわけですね。初めの目覚めていた状態はサフウというんですが、これは本当は酔いがさめて素面になった状態のことなんです。素面でいたものが酒を飲んで酔い心地に入る。しかし、いつまでも酔っていられないから、必ずまた目覚める。それが第二の目覚め、術語的には「第二番目の素面」と言います。そういう理論があるんです。
上田閑照 おもしろいですね、実に。
井筒 その第二の素面状態に、人間である限りはどうしても戻らざるをえない。神なら戻らないでいいかもしれないけれども。それで、人間にとっての一番直接的な、一番身近な現実が、一遍酔ってまた素面に戻った人の目から見てどうなっているのか、その構造を探るということが、哲学者たるものの一つの重要な課題になる。(略)
ちょっと言い残したんですけれども、前に申しましたジュネイドの場合には、第二の素面は日常的現実の世界に返ってくるんじゃなくて、神に対してバクティ的関係、つまり熱情的な信仰に入ることです。
大沼忠弘 そういう意味での第二の目覚め。
井筒 そうなんです。ですけど、普通はイブン・アラビーでも他の神秘家でも、みんな哲学する場合、第二番目の素面の場合には、現実的多者の世界に入って、その多者が一者との関係でどうなっているかという構造を哲学的に解明するということに問題の中心点をおくということになります。」

再録・継続

  • 生活スタイル(20070403)

別に「個性」なるものはいらないのですが、生活スタイル(様式、リズム?)を早く確立したい、とは常に思ってきたし、今も思っています。それは、日課/週課/月課におきかえられてもいいのですが。

その「生活スタイル」というものは個性的でなくともよいのです。他人と「ちょっと違う」でなくともよいのです。でも、少しだけ「お洒落」でありたいとは思うのです。で、その「お洒落」の規準を決めるのも結局自分なのですが。。

今はっきりしているのは、「お洒落」とは「個性的」ではないということです。(【重要】マーク)

(再録終わり)