元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

馬鹿にしてかつ「バカ」にしている

stevengerrard.hatenablog.com

現代人にとって、教養、たしなみを身につけることは、残念ながら重要ではなくなってきました。

それは、教養、たしなみといったものが現代人に身についたから、ではありません。

読書のたとえですが。。

読書が他の娯楽と同じ「土俵」で競争にさらされていますね。

ムカシは、読書は庶民の唯一といっていいぐらいの娯楽であり、その娯楽でヒトビトは貪欲に知識を身につけていけました。まさに一石二鳥。

さらに、ムカシは勉強したい者だけが学校に行っていたわけですから、現代人と比べて知識と教養の吸収度合いが違ったわけです。

今の娯楽というのは要はヒマつぶしであって、ひとときの享楽という基準では、読書はおそらく他のほとんどのテクノロジーを駆使した娯楽には勝てません。

そして致命的なのは、現代社会の娯楽では、教育水準の向上により半強制的に得た知識を教養に昇華させることなど望むことすら間違っていますから、つまり、今の日本人は、せっかく得た知識をヒマつぶしによりクサらせてドブに捨てていることになります。

一方でドブに捨てながら、もう一方では新しい知識の獲得を貪欲に望む。。(セカンドスクールとか「駅前留学」とか)

この愚かなマッチポンプを実践しているヒトが、人生において通奏低音としての不満足感を常に感じている「層」になります。

現代人は、これだけテクノロジーを発展させておきながら、教養をスムースに身につけることができる「装置」を未だに発明していない。これはなぜなのか?

コンピュータで教養を身につけられると思ったら、大間違いだというのは、まさか共通理解としてありますよね。

なぜか、といえば、その必要がないから、なんですね。なぜその必要がないのか、を考えてゆくのはムズカしいのですが。。

「教養の獲得よりもヒマつぶしのほうが優先されている」という現実を顕わにすることがまず大事。

とてもヒニクなことに、ゲームだったり、娯楽としてのテレビのコンテンツを作る側の人間が、人間的に魅力があり、教養にあふれていたりします。この事実にも目を背けてはなりません。

そういう人間が集まって、なぜか庶民を教養から遠ざける娯楽を麻薬的に広めているのはなぜか。ホント、なぜなんでしょうね。。 儲かるから、というそれだけのモチベーションではないはずなのです。

作る側が、庶民を「バカ」にしている(「馬鹿にしてる」とは違いますよ)ことに対する反省は、皆無とみえます。それどころか、庶民を「馬鹿にしてる」感がありありとみえますね。

コトバの定義のハナシですが、本当の庶民ではなくて、よく選挙で「無党派層」と呼ばれる、地に足がついていない層が、ある程度の多数派として存在するらしいのですが、実は、この国を「マワしている」ヒトたちがことごとく馬鹿にしてるのはこの層なのですね。

馬鹿にしてかつ「バカ」にしている。(ダジャレですが。。)無教養から脱皮しないよう、その「層」が気付かないよう、狡猾に抑え付けている。

まず、このことに気付いて立腹してみないことには。。

立腹してどうするか、というと、「教養」というバクゼンとしたものを身につけて、支配する側と対等に対峙するのです。

独りで向かってゆくという気概を持つこと。それは、キモチだけでもいいのです。