元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

死はどこへいった 絶対清潔 ヘンな趣味イコール宗教 擬人化

本来の日記部分

  • 体調

急激な温度変化で体調を崩したような。。
もしこのまま残暑がないとすれば、今年の夏はメリハリがあってとてもよかったですね。
梅雨はまとまって雨が降りましたし、梅雨らしいストレスを我々に提供し、梅雨明け後はうってかわって猛暑になり、猛暑というストレスを我々に提供し、「いいかげん暑いのはやめてくれ!」という人間に思いがピークになったときに「ほらよ」とばかりにお天道様は急激な涼しさを提供する。。

あげくのはてには「涼しくなりすぎだ!」と文句を言うヒトも増えるのでしょう。
メリハリがききすぎるとヒトは文句を言いたくなるのですね。じゃあ結局常春がいいのですか? マリネラのように。。



人生観、のような、思想の話

  • 主体と客体 擬人化

鈴木大拙の本を読みながら、ヒトがモノを見るときに主体と客体に無意識のうちに分けてしまう、という話で思い出したのは。。

最近、動物だの植物だのをなんでもかんでも擬人化してデフォルメしているのが目につくなあ、ということ。

はるかムカシから、たとえば絵本などではひっそりとこういう傾向がありましたが、今は「キャラクター」という形でどんどん動物が「スカウト」され、擬人化されています。

そのキャラクターのストーリーの中では、動物が立って歩く。しゃべる。おとうさん動物は、ネクタイをして会社に行く。etc。。

最近、あまりに「キャラクター商品」が増殖しているおかげで、少しずつ違和感を感じていたのですね。
違和感を感じていること自体、気付いていませんでした。なぜならば、皆が皆、なるべく「違和感」を感じさせないよう、動物に演技させているからです。


たとえば外見がカワいい動物はそのまま良い子として擬人化されます。ですが、外見がカワいくとも凶暴な動物はいるわけです。
といっても、そういう動物をもたとえば「小悪魔」的キャラクターとして「キャラ立ち」させようとするのでしょうが。。


そのキャラクターがなぜ鈴木大拙と(自分の回路の中で)つながるかというと、動物をキャラクター化しているとうことは、現代人は「山は山、川は川」とありのままに見れない、ということをロコツに示しているからです。

たとえば、ネズミはネズミであり(ディズニーのように)踊ったりミュージカルをしたりはしない。
ネズミに服を着せて躍らせる、という空想を、全否定はしませんが肯定できません。

この時代はその空想を「やりすぎ」なんですね。
たとえばコドモたちは「アリさん」も悩みを抱えているんだね、と(空気的に)教わります。でもアリはアリであってただただ働いているに過ぎない。それはいつ知るのだろう? このキャラクター化された世の中では、コドモはオトナになってもずっと「アリはアリである」とは思う機会がない。

それが、「純粋なコドモ心を持っている」だと思ったら大間違いなのです。
なぜ大間違いなのか、を説明できないのがイタいのですが。。

ガキのままオトナになる、というのが正しい手段ではないのです。一旦オトナになって、かつ「コドモの心」を持ち続ける。大拙風にいえば、「糞尿を垂れ流したままオトナになるということではない」ということなのです。
分別の中にコドモの心を持つこと。

「世代間」の話

  • 「楽しければいい」というのはわかった

「楽しければいい」を標榜したり、あるいは少しでもそれを実践できるようになっていたり、一定の人数がそういうことができている、ということは、多くのヒトビトがそういう世の中をナメきった考えでいられるための社会的基盤、インフラが着々と整備されている、ということです。

そしてそれがあまりに当たり前のこととして存在するために、感謝を忘れています。

感謝せよ、とかそういう説教臭いことを書きたいわけではなくて。。
そのインフラを最大限享受して、使い倒してやれ、という考えを否定するものではありません。なぜなら、そういう「利用者」が殺到すればインフラはもっともっと人間が便利な方向へ進化してゆくものだからです。(そして、ますます自然は破壊され、そういうヒトが願う「エコ」はますます実現から遠のいてゆきますが)

ですが私は、おそらくそれだけでは人生は「うまく」は生きることはできないに違いない、という確信(「気付き」)がすでにあります。ここに。
だから、「感謝」から始めようと思います。


ところで、その社会的基盤というのは、ぜひ社会への「貢献度順」に享受できるようにしてもらいたい、というのがムカシからの私の持論です。

昨今は、「楽」できるための社会的基盤、つまり「甘い蜜」に早く群がったもん勝ちになってきており、一定の社会貢献をしていたり、それなりに納税したりしている人間―真に、社会的基盤の恩恵を享受できるはずの人間、が本業が忙しくで出遅れてしまい、行ってみたときにはもう大行列が出来ていて、並ぶことすらできない、という由々しき状況になっています。

なぜ「働かざるもの食べるべし」になってきているのか?(【重要】マーク)

だから、「甘い蜜」に早く群がったもん勝ちなのであれば、どうやって早くそちらに群がればいいのか、を考えればよいわけで、早く群がれない阻害要因になっている社会貢献や納税のための労働が馬鹿らしくなるのは自明です。

もしくは、馬鹿らしいがために、その「行列」に並ばなくとも済むようなウラ口を探すことにばかり長けてくる、というオカしな人種も生まれつつあります。


いっそのこと早く国民総背番号化して、納税額や社会貢献度順にランク付けして、公共サービスに明確な差をつけてもらいたいですね。
ムカシは国民IDカードを色分けして差別化すればよい、と考えていましたが、今は非接触式IDカードがありますので、外見は同じカードでも、そこに入っている情報での差別化は可能です。

どのようにランク付けするか、は官僚が考えること。
とにかく、なぜ納税しているヒトたちとニート、フリーターと呼ばれる、納税を逃げているヒトたちが、同じ「甘い蜜」を「平等」に享受できるのかが、私には全くわからないのです。

死、あるいは宗教に近い話

  • 「ヘンな」趣味イコール宗教?

先日、Avantiで特集されていた「タモリ倶楽部的」趣味、たとえば、高層ビルに萌えるとか工場に萌えるとかダムに萌えるとか、あるいは「鉄子」とか、ああいう「逸れかた」は、真の意味での宗教に近づいていると思いますね。
これは仮説にすぎませんが。。

まず、そういう趣味に走るヒトは現世の否定に走っているのとニアリイコールであるような気がします。
そして、その無機質な対象を純粋に「信仰」しているような気がするのですね、
また、その信仰対象に対しては、何も求めていない。ただ求めるのは「そのままであってほしい」という。。

最後に重要なのは、他人を強烈に巻き込まないということ。「どうせわかってもらえない(でもちょっとはわかってほしい)」という諦観により、他人をオルグ(あるいは折伏)しない。
ただし、その話題をフられたら、激烈にカタる。(ヒトを選んでから)そしてそのカタりにはオルグの要素はほぼ、ない。


で、その「信仰」を共有している人間同士、集まりはしますが、それほど深くは付き合わない。たとえば信仰対象について激烈に議論して、分派したりというのはない。
これはかつてのオタクたちのつながり方といっしょです。

鉄道ファンも、乗るほう、電車のほう、と棲み分けができており、それぞれが互いの趣味を認め、攻撃に走ることはない。
(かつてはそうでしたが、マスコミに侵されてからはどうなっているのかわかりません)


そういう「逸れかた」も、マスコミにとりあげられることにより、ひっそりと信仰している「趣味人」たちがオカしな自尊心などを持ち始めることにより、崩壊してゆくのですが。

マスコミに取り込まれるか、否か、というのは、「宗教戦争」の様相を呈していますね。

  • 報いを求めない

報酬の類を求めない行為、仕事というのはつまりは「個人的」ということになりましょう。それこそがまさに真の「個人主義」であり、それに気付いているヒトはどれほどいるのか。。

そしてそれこそが、「宗教」へ向かう第一歩なのではないか、と。

カネを求めない、昇進を求めない、評価を求めない、社会的名声を求めない仕事というのはつまり自分に向いているということですね。自己完結を求めている「だけ」です。

それは「修行」に近いものなのではないでしょうか。


このアプローチは、多くの人間が逃避のために「新興シューキョウ」へ向かうアプローチとは、180°異なるものではないですか。

  • 「死」はどこへいったか(【重要】マーク)

10年ほど、ぴたっとフタをしていた「死」に対する考え―これを、このパンドラの箱を今、少しずつ開けているわけですね。
自分は、かつて、「死」というものがぐっと近づいてきたときに、今考えてみるととてもうまく対処しました。それに対する感情のようなものを、「ぴたっと」どこかにしまいこんでしまうことができたのです。
いま考えるとなぜそのような「技術」を持っていたのか、わからないのですが。。

それを箱に入れたのかダストシュートに投げ込んだのか、それはイメージの世界ですのでわかりませんが、それが10年ほど経過して、醸成されてきたか、あるいはもう暴れまくってどうしようもなくなったのか。。
とにかく、「開けてみる」必然性があるようです。「時はきた!」と。(ケロちゃん@新日本風に)

開けてどうなるのか、開けたらどうなるのか、という答えは、早急にみつけなければならないわけでもなし、性急にやる必要があるわけでもなし、結論はおいおい出ることでしょう。

ですがはっきりしていることは、それを開ける触媒として「宗教」というモノはゼッタイに必要であったということ。それも、自分が毛嫌いしている「新興シューキョウ」ではなくて、もっと根源的な「宗教感」のようなものです。
それはいってみれば「死生観」の先にあるもの、といってよいでしょう。数多の先達が「死」を極限まで考えた先にたどり着いた結果、つまり「叡智の結晶」ですね。
それを僭越ながら拝借して、自分の触媒にさせていただきましょう、ということですね。

抜粋・紹介

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

人の苦しむのを見て、どうも、気の毒である、救わなければならぬという心持は、自分も苦しんだ覚えがあるので、その考えが出て同情ができるという人もある。が、同情の因は、そんな分別をしてから動くものではないと思う。まず自と他とを分けて、自分はこうだ、そこで他人はどうだと言って、それを自分に引き当てて同情を出すのだというよりも、自と他とは初めから区別せられないで、われらには各自に何か本具底なものがあって、それが自他を超越して動くのだと考えたい。この動きが初めから各自にあるので、いわゆる「他」人の苦しみを、自分の苦しみにひきかえて見ることができるのである。自と他というものが初めから分かれているとすれば、他人の苦しみも、自分の苦しみに引き当てて感じることはできないわけである。大悲は他に加わるのだから、自他は初めから分かれているということもあろう。が、それは外へ出てからの話で、大悲は、その実、自他のないところにあるから、自が出、他が出るようになっても、元の一様相たる同情の生活ができるのである。(略)
(抜粋・紹介おわり)
「日本的霊性」の最後の箇所で、なんとなくここにぽっと、大拙の「私見」が出ているような気がして(「自分も苦しんだ覚えがあるので〜」といった記述から)、そしてかつ最後の最後にこの文を載せなければならない必然があったのでしょう。
この記述は「禅」からはちょっと外れるのかもしれませんがすごく重要なことが、ちょっと俗世間に下りてくるような感じで、書かれているように思えます。うまくいえませんが。。

  • 時間

物理的時間は有限だが、内面的時間は無限。
数分の夢で、相当な期間の夢をみることがある。
死ぬ寸前の刹那に、一生を振り返ることができる、とも聞く。
事故などの衝撃的なことが起ると、時間の流れがスローになる。

昨日書き出したような気がしますが、有限な物理的時間は、時間に支配されるのではなくて時間を「使う」のが肝要。なぜなら、有限だからです。

そして、内面的時間に目を向けましょう。内面的時間は無限にあるからです。


ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

(記憶が定かであれば。。 という前置きをしておかないと村上ファンに無用なツッコミをいれられますから)羊男が僕に授けたアドバイス「音楽が鳴り続けている間は踊り続けるしかないんだよ」というのは、なんだか胸に沁みます。

この本を初めて読んだとき(いつでしたか。。)もストレートに「そうだよな」と思いましたし、今も、いや今のほうが強くそう思っていますね。

なんだか最近その踊りがハゲしくなっているような気が。。


(抜粋・紹介終わり)

会社シリーズ

  • 個人行動

会社、というものは。。ちょっと個人行動しただけで「協調性がない」と烙印を押される時代も、ありましたね。。
たとえば、ランチの誘いを断り続けるとか、飲み会に2回連続で参加しないとか、ただそれだけで。。

今も古い体質の会社は、そうなのでしょうか? よくわかりませんが。。


今の時代、フリーで現場(会社組織)に出勤する身にとっては、そういう不可解なしがらみが減り、とても仕事しやすい環境になってきました。


無用な飲み会にNoを!です。
なぜ職場のだらだらとした飲み会にワリカンでカネを払わなければならないのか。
それどころか、飲み会というのは副流煙を浴びまくるわけですね。ということは、健康を害されるのですからその慰謝料をもらいたいぐらいです。

最近、昼時間に禁煙が増えてきたので、喫煙組は夜、飲み屋などでここぞとばかりにタバコを吸う傾向があります。そんな場にはゼッタイに行きたくない。「殺す気か?」と思いますよ、ホントに。