元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ポジティブなコトバ

人生観、のような、思想の話

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最近、ポジティブなコトバにより、願いというのはかなうような気がしてきました。
ところで、たとえば多感な青春期に、ブラウン管の向こうのアイドルと結婚したい! と強く願ったところで結婚はできません。たとえ毎日お経のように結婚したいと唱えたところで。ポスターを部屋に貼り付けてもムダです。

前者と後者は矛盾しないのでしょうか?
思いの強さでいえば後者のほうがタイヘンに強く、強いどころか狂信的ですらあります。

まず、狂信的であることはいけないのだと思いますね。そこには、根拠がない。

コトバを大切にする人はまず、実現不可能な妄想を目標におかないような気がします。

そして、大事なのは、実現にいたるまでの過程をコトバにより明確にできるということ。望む結果だけを連呼してもムダなのです。過程を明確化できれば実現に近くなってきます。

若いヒトたちはまずそこを理解したほうがよいと思います。たとえばアイドルと結婚したいのであれば、事務所前で待つ、という過程を明確化したところで、それではいつまでも結婚まではたどりつけません。
たどりつけないのだ、ということを、どこかで諦める必要があります。いえ、あきらめなくともいいのです。どこまでも過程を明確化してゆける自信があるのであれば、どこまでも夢を追いかけるべきなのです。

ただし、法を犯すようなことをしてはいけません。。

たとえば、勉強するなり努力するなりして、その事務所のマネージャーになる、とか、事務所前に待ち伏せするよりはそのほうが現実的、具体的ですよね。

再録

世の中のいろいろなモノ、コトに対して「何か悪いかよ」と言えるようになってきたと思いますね。やっと。。自信のあらわれなのでしょうか。

前にも書きましたが、なぜ自信を持っているかというと、自分は、世の中に対して「何ら悪いことはしていない」からです。

それ(自信の根拠)は、何かに卓越した技術を持っているとかメディアで脚光を浴びているとかチヤホヤされるとか、そういうものでは全くない。そういった「わかりやすい」根拠ではない。

「ふつうに」税金を納め、コドモを育て。。ということを、続けている、ということです。

でもそれは、実は「ふつうに」考えてもムズカしいことであり、「何ら悪いことはしていない」という気持ちをもってもバチはあたらないでしょう。

税金を納めてコドモを育てる、というのは、実は「ふつう」ではないのです。特に最近、それらを「やりたくないから、しないもん」とあからさまにいえる勢力が登場してからは。

我々が優位性を誇示しても何ら問題はないでしょう。税金を納めるというのは国、自治体の維持に一役買っているということであり、コドモを育てるということは、右翼的にいえば「国力」を育てているということです。

これらを、「あたりまえ」とは思ってほしくはない。(特に、お役人、政治家には肝に銘じていただきたいものです)

特に、私にとっては、「ふつうに」税金を納めてコドモを育てる、という、そういう生活をするために自分のレベルを上げること、そこに至るまで苦難の連続でしたので。

世の中には、「ふつうに」、ナチュラルにふつうのことをできる方も大勢いますが、自分は決してそうではなかった。仮に他人からは「ふつうに」やっていると思われているのだとしても。。

ロクに納税もせず、コドモも育てず、自分のためだけに生きているヒトたちと一緒にしてほしくないですし、そういうヒトたちの言説と私のそれとでは重みが違う、と確信しています。

だからこそ、「何か悪いかよ」といえるのです。

まあでもチヤホヤはされたいですけどね。。(ホンネ)私個人が、ということではなくて、今必死になって子育て最中の我々世代全体が、世の中からチヤホヤされてもいいと思います。

「チヤホヤ」で思い出しましたが。。

いろいろなモノ、コトに対して、トレンドに忠実に、移り気に「チヤホヤ」してゆく「層」がいます。マスコミに忠実に、マスコミに取り上げられたモノをほめる。

それはどういう「層」かといいますと。

たとえば韓流ブームに後発でまんまと便乗したヒトたち。。象徴的なのは、私が「かんりゅう?」というコトバを発したときに、瞬時に「はんりゅう!」と得意げにボキャブラリーを披露するような。。 そういうヒトたちです。

こういうヒトたちも、「いつかは対峙しなければならない」リスト入りなんですよね。。