元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「卒業」できないハナシ

再録

小学〜高校時代に、「なんで学校に行かなくちゃならないのか?」と疑問を持ちながら、そしてたまに「プチ」サボりをしながら、でも結局は学校に従順に、くすぶってきたヒトたちがそのまま親になり、まったく同じように「なんでコドモを毎日学校に通わせなくちゃならないのか?」「なんで(このアタシが)毎日弁当つくらなきゃならないのか?」となってゆくわけです。

そして全く同じように「プチ」サボりをする。。結局体制には従順ですが。

「卒業」していないから。こういうヒトたちは「背中」でコドモを育てることができない。口だけになって、そしてそれではコドモには通用しない。コドモには、大人を装ったコドモ(駄々っ子)の姿が透けてみえるのでしょう。
「プチ」サボりしかできずに、ちょっとだけ体制に反抗したつもりになって、でも実は長いものに巻かれるのがダイスキ! というヒトたちがそうなるのであって、たとえばホントに不登校を経験したようなヒトたちのほうが、そういうプチ反抗を「卒業」して、びしっと子育てをできるのかもしれませんね。

それは極端な例ですが。。

たとえ、学校という体制にギモンをもっていたとしても、それを自身の内面で消化し、別なところで楽しみを見つけられていたヒトは、ちゃんとそのように子育てできます。

「そのように」とは、体制やルールといったものを「所与」とし、それをも包括して人生を豊かにしてゆくための「指南」を、コドモにできる、ということです。具体例を示さずとも自分がそのような人生を送れているわけですから、「背中」でコドモに示すことができる。

体制へのギモンを消化できている時点で「大人の態度」ですから、卒業という概念も不要なのです。学生時代にすでに大人になれている。

この、きっちりと「卒業」しない、というのは。。

ハナシを飛躍させると、戦争犯罪を自ら裁かず戦勝国にすべてを委ねてしまい、戦後総括をきっちりとしないままなし崩しになってしまった日本の状況の縮図ではないでしょうか。(大げさでしょうか?)