元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「課」とマニュアル化 リトマス試験紙としての自分2

本来の日記部分

とにかく京王線京王線に乗ったり降りたり。

京王線を降りて(? たぶん)田舎道を自転車でひた走り、休んでいたところ、男性(知り合いのような、そうでないような)に道を聞かれて、どこを抜けていったら町に出られるか、などを話す。


人生観、のような、思想の話

  • 「課」とマニュアル化との相関関係

世の中がマニュアル化されることに対する批判が高まっているように思います。

私は、マニュアル化された世の中にそれほど批判的ではありません。
マニュアルがないと仕事にならないレベルのヒトたちが増えてきたという証左ですし、たとえば飲食店であれば、ぶっきらぼうで無礼な接客よりはマニュアルを読み上げているヒトのほうがまだよいです。


ところで、「日課」など、毎日毎日モノゴトを続けていくことに嫌悪感を持っているヒトたちは、おそらくマニュアル嫌いとイコールなのでしょう。

この関係について深く考察してみたいのですが。。 今日は書き出しただけで終わり、ですかね。。


99.99%のヒトたちは、これから死ぬまで「終わりなき日常」が続くわけです。非日常と錯覚される「イベント」ですら、ひとつの日常に内包されてゆく時代。
そんな時代に「日常」を楽しめなかったら地獄ではないか、そんな世の中の流れに逆らって、常に非日常(カタルシス)を求める人生を選択するのではなく、割り切って「日常」そのものを楽しめるようにしたらいいのでは? というのが私の基本的見解。

「日常」を構成しているしているのは、たくさんの「課」です。「課」には意識しているものとしていないものがあり、意識せざるを得ない「課」に対して、「そんなものはなくなればよい」と考えるヒトは多い。
でも、「日常」イコール「人生」が「課」の連続で成り立っているのは否定できない事実であり、それらが仮に全部なくなってしまったらヒトは途端に立ち行かなくなります。「課」なんかいらない、といっていたヒトほど、「もっと自分を『課』で縛ってくれ!」と叫ぶようになります。

カンタンにいってしまえば、「面倒くさい」「(一般的に)やりたくない(とされている)」属性を持つ「課」だけを排除してゆきたいわけですね。

でもそれも、できなくはないと思われます。極端にいえば「死」覚悟であれば。
楽しいことだけやり、あとはぼーっとしている、という人生を送った結果として待っているのは「死」です。あるいは、「廃人」ですね。
たとえば、仕事をしない人生を選択したら、食ってゆくことはできませんね。
世の中の大部分のヒトは、やりたくない「課」を排除したがるくせに、その結果どうなるかをわかっていて、それを怖れて、結局やらない。だから、常に人生においてかすかなストレス、不満足感をかかえながら生きることになる。(その、ストレス、不満足感の単なる蓄積を『トラウマ!』と勝手に読み替えるヒトが激増していますが 完全に間違っているのに)


やりたくないから、やらない、という方向ではなく、やりたくないことを楽しく、とまではいかなくとも自然に、苦痛を感じない程度にこなすように自分を仕向けるのが、この「終わりなき日常」を生きるための現時点で自分が考える最良の策です。


「ススんでる」ヒトは、ここまでの境地に達しつつあります。
つまり、「課」があることは受け入れる。「楽しいことばっかやってりゃいーじゃん」の境地からは脱している。
「もしかして、世の中って基本的には苦しいもの?」という気付きが、ある。

やりたくないと感じる「課」をあくまで排除するスタンスでこれからも生きるヒトは、もとよりそれは不可能に近い(「選ばれたヒト」だけに許された世界なのです)ので、これからの時代もますます無間地獄にはまってゆきます。

その、無間地獄にはまってゆくヒトたちがどういう行動に出るか、というと、嫉妬羨望をむき出しにして、無間地獄から抜け出て、ある程度の境地まで達しつつあるヒト(「達している」ヒト、ではない)を引きずりおろそうとします。
ですから、そういうヒトたちとは今後、お近づきにならないほうがいいのではないか、というのが結論。


話はそれましたが。。
「課」は苦しいものである、という前提で、その苦痛を和らげるものとして「マニュアル化」は必要なのです。
続けられたら続けます。

「こうありたい」または反面教師

昨日、議論について「スパーリングパートナー」としての自分の相手をパターン分けしたのですが、今日、もうひとつもやっと思い浮かんだことがあって。。

最近、ヒトの言うことをまったく聞かずに自分の意見ばかりを押し付けるヒトが多い、だから、会話が成り立たない、ということを書きましたが、正確にはそれは違うのではないか、と。

最近増殖しているのは、一見聞き上手のふりをして、あいづちも上手だったりするのだけれど、実はすべてスルーしているヒト、ですね。
聞いてあげて、話す、という、一見会話が成り立っているように思えるのですが、実は成り立っていない。ひととおり聞いてあげて、それを咀嚼してコトバを返すのではなく、意識的か無意識かわかりませんが完全スルーしているので、次の自分のコトバは、必然的に相手のコトバとは全く違うモノとなります。

何かに書いてありましたが、今はそれが、若い世代のふつーの日常会話だという話で。。
つまり、「聞く」能力が決定的に退化しているのですね。「聞く」というのは、単なる「音」として相手の発生する言語を聞き取ることではありません。
「聞いて、咀嚼して、理解する」という一連のプロセスのことです。

おそらく、「ディベート」の能力は、我々世代よりも下の世代のほうが圧倒的に進化しているのでしょう。でもそのディベート能力を得た代償として「聞く」能力を犠牲にしている。

このあたりも、アメリカの思想を間違って解釈していますよね。。


だから、最近、若いヒトたちと仕事していても、ツカれるだけなのです。
なぜなら、こちらが「ふつーに」聞くことができる、相手はできない、となると、それは「カウンセリング」の場と同じなのですよ。(【重要】マーク)
毎日毎日精神病治療のクライエントと向き合ってるようなものです。そこまでオーバーではないですが、日常がその「縮小版」になっています。
聞くことができない人間同士であれば、全く問題はないのです。ぜひ、そういうヒトたちだけで勝手にやってほしい。
そして、世代間断絶をして仕事をしたいものだ、とココロから願います。あるいは、下の世代であっても「聞く耳」を持っているヒトとだけ、ヒトを選んで仕事をしたいですね。

死、あるいは宗教に近い話

  • 全く無用な本殿

鈴木大拙は、「念仏には草庵がふさわしい」と書きました。親鸞は、寺をつくらなかった、とあります。
信仰にはあの、仰々しくてシュミの悪い「本殿」といったものは元来不要です。信仰というのはきわめて個人的なものであって、また、信仰の対象となるのは現世の「物体」ではない。ましてや「本殿」でもピカピカの如来像でもない。

すべては「ココロ」の中にある。
なぜ、シュミの悪い、勢力や資金力を見せびらかしてたまらないような「本殿」が必要なのか?
それはただただ、それがあったほうが「わかりやすい」からです。

と、いうことは、そもそも宗教というのはわかりやすいものではないのですから、そういうシュミの悪い「本殿」を掲げている「宗教団体」は真の意味での宗教ではありません。それはそのとおりの「宗教団体」(「シューキョウ」)にすぎず、「アヘンとしての宗教」に属します。


私は「シューキョウ」がキラいです。麻薬のように、市井のヒトビトの生活を滅ぼしてゆくものがなぜ「宗教」なのでしょうか?


「楽してやせられるダイエット」と同じように「シューキョウ」はキラいです。一発で救われたいと願う面倒くさがり屋が集う「サークル」。

決してわかりやすくない真の「宗教」には、そんなヒトたちはやってきません。

抜粋・紹介

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

一人は米を食べる人、一人は米を作る人、食べる人は抽象的になりやすく、作る人はいつも具体の事実に即して生きる。霊性は具体の事実にその糧を求めるのである。浄白衣では鍬はもてぬ。衣冠束帯では大地に寝起きするに適せぬ。鍬をもたず、大地に寝起きさせぬ人たちは、どうしても大地を知るものではない、大地を具体的に認得することができぬ。知っていると口でもいい、心でもそう思っているであろうが、それは抽象的でしかない。大地がそれを与えてくれる恵みの果実の上でのみ知っている人々は、まだ大地に親しまぬ人々である。大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上げ下げでは大地はその秘密を打ち明けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、みずからも大地となることができると、大地はその人を己が懐に抱き上げてくれる。大地はごまかしを嫌う。農夫の敦厚純朴は実に大地の気を受けているからである。古典の解釈にのみ没頭している人は、大地の恵みと米の味とを観念的に知っているだけである。絶対愛の霊性的直覚はかくのごとき観念性の下地からは芽生えせぬ。ことに日本的霊性は具体的事実の上に育てられているのであるから、その事実の動かぬところでは、はたらき出ないのである。日本人の霊性的直覚は文字や記録の詮索ではない。それから生まれるものは知性的である。知性の大いに大事であることはもとより疑いを容れないのであるが、知性は霊性的直覚の中から出てほしいのである。これを逆にして知性的言挙げを主として、それから直覚を引き出そうとしてはならぬ。実際はそれはできぬ相談である。情性的直覚を説くものも知性の言挙げを忌むが、それは霊性からするものと、同一系列には属さないということを、深く記憶しておかなくてはならぬ。
(抜粋・紹介終わり)


これはこのとおりなのですが。。
これを浅はかに解釈して、「これからは農業だ、自然だ」と急進的に進んでいってしまうのが現代人の悪いところで。。
資本主義的見地から農業、自然に進んだところで、ここでいう「大地」は全く「秘密を打ち明けてくれぬ」なのです。

その前にこの高度資本主義社会の真只中でやることがあるのです。

再録・継続

  • 期待をもたせる(20070327)

これもすでにどこかに書き散らしているのかもしれませんが、自分はムカシから、他人や親類にあらぬ期待を抱かせてきたらしいんですね。いわゆる「末は博士か大臣か」ってやつです。

コドモの頃、若いころはよく、「期待してたのに。。」的なことを言われたのです。もちろんそういうときに思ったのは「期待してくれなんて頼んだおぼえはねえよ」だったのですが。。

今はもう少し、柔軟に考えることができます。期待されるのは幸せだということ。

オトナになってからは、それがけっこう良い方向に作用している、というか。。

期待をもたせる雰囲気を醸し出している(らしい)がゆえに、期待値込みでカネのいい仕事をもらったりだとか。。

まあ、ビジネスはそんなに甘いものじゃないので、それに見合う努力をしてゆかないと、すぐにキラれてしまうのですが。それで、嫌々ながらであっても期待値に応えようとして「努力」をしてきた、というのはあります。

昨日まで言語化能力について書いていましたが、雰囲気とは別に、けっこう言葉でハッタリをかませられるようになってきた、ということもあるでしょうね。ビジネスはハッタリが勝負ですから。。 カネを得たもん勝ちのところがありますからね。

ハッタリであっても、そこに何かを感じてお金を出してくれるヒトがいるわけです。ハッタリであるということはバレているのでしょうけど。。


要は、努力とハッタリなしでは期待に応えられない、ニセモノなんですよ。そういう自覚はあります。コドモの頃、そして若い頃に、周囲の期待に応えられなかった、というのがニセモノである何よりの証拠なのです。

(再録終わり)