元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

再々録予定「ふつーの」人生

「ふつーの」人生

人生というのは、「ふつーに」、無理なく暮らしたところでそれほどオモシロいものでもありません。

白馬に乗って王子様がやってくるわけでも、1億円拾うわけでもありません。待っていても何も起こりません。

なぜ人生がデフォルトではオモシロくないかというと、理由はふたつあって、まず、そのまんまでは刺激的な「非日常」のイベントが発生しない ため。

もうひとつは、人の人生には「課」つまり、やりたくなくともやらねばならないことがたくさんあるからです。

その、やりたくないことを「やらない」という手段で拒否してゆくか、やりたくないことを工夫して時間を短くしていったり、あるいはちょっと だけ「あ、楽しいかも」という思いを入れ込むよう努力するか、で、人生の「豊かさ」がまったく変わってくるのです。

ところで、拒否したところで、別なカタチではねかえってきます。。

それはたとえば、そのやりたくないことが誰かがやることになり、それで恨みをかうとか、あるいは、そのやりたくないことをためこんだために ますますキツくなるとか。。

逃げ回っていても結局付け焼刃であって、意味はないのです。

やらなければならないことは、ただただ、やればいいのです。

その「ただやる」ということが、「宗教」につながってゆくわけです。

とりあえずここまでは到達しとかないと。。と、思っています。

逃げ回っていてはそこにはゼッタイ到達しないのです。


ムリをしない、という生き方がありますね。最近、そのような感じの生き方が肯定されてきつつありますが。。

でもそれだと、人生における「課」のボリュームに圧倒されてしまうという。。

各自のこなすべき「課」というのは、ほんの少しムリをしないとこなしきれないように、人生はできているような気がするのですね。


で、その「課」というのは、ムリをしない、という考え方を生きる指針にしている人間にとっては「苦行」に他ならない。

でも、そういうヒトにとっては苦行かもしれませんが、同じ数ぐらい同じ行為、作業を苦行とは考えないヒトたちもいます。

苦行と考えないヒトの中にも、ナチュラルに苦行と考えないヒトもいますし、努力により、苦行を苦行と思わないようにしてきたヒトも、いるの です。


こういう理屈を述べると、「ムリをしない生き方」肯定派のヒトたちに、「実際、ムリをしないで生きているヒトもいるじゃないか」といわれそ うですね。。

たしかに、いるのでしょうね。でもそれができるのは、結局「選ばれた」ヒトであって、そういう発言をしようとしている「アナタ」が「選ばれ た」ヒトでない確率は100%なのです。

それだけは、間違いないので安心してください。

そして、「選ばれたヒト」はまたそれはそれでタイヘンなのです。「アナタ」のようなヒトの嫉妬羨望攻撃をモロに受けたりだとか。。

良くも悪くも世の中がほっとかないわけでして。。

だから結果的には、人生トータルでは選ばれているが故にムリしているという。。