元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ルーティンを迎え撃つ

ルーティンを迎え撃つ

たとえば「課」、日課が、永遠に続くのかー。。と思ってしまい、うんざりするのではなくて。。

何か大局の流れの中にある、みたいに考えることができれば永遠を感じなくてよいというか。。

たとえば僕は毎日毎日早起きして掃除していますが、これが永遠に続くのかー。。あーうんざり、とは思いません。

それは、なぜなのでしょうか?

この「なぜ」がわかりさえすれば、思想的にいい線行くと思うのですが。。

カンタンにいえば、「課」を楽しいものにすればいいわけです。

それを、口で言うのはカンタンなのですが、大事なのは「課」を楽しいものにする手法を具体化するといいますか。

現代人、特に若者は、この世の中を「終わりなき日常」と考えてしまって、この日常が永遠に続くのか。。と考えてしまった結果として、刹那的な「非日常」を追い求めてしまう。

「刹那的な『非日常』を追い求めてしまう資格」もないのに。

世の中のほとんどの庶民は、確かにおっしゃるとおり、終わりなき日常を生きる他ないのです。

昨今は、「アナタは(ただの)庶民じゃない!」という教育を受けてしまう。自分が、何か選ばれた人間であるとカンチガイしたまま大きくなる。

選ばれた人間になれる可能性は誰もが持っています、確かに。可能性は、誰もがありますが、実際にそうなるには相当な努力が必要なのです。努力が必要なのだということを、昨今の教育においてはきっちりと教えない。


さて、「永遠」にハナシを戻しますが。。

ヒトは死ぬわけですから、永遠のわけはないのです。永遠に続くとはすなわち死ぬまで続くということです。

死ぬまでヒトは生きる。死ぬまでヒトは呼吸する。「死ぬまでオレは呼吸するのか、イヤだなあ」とは誰も思わない。

ということは、面倒くさい(らしい)日課を、「呼吸」レベルまでアタリマエのことにすればよいわけです。

さて、そういう意識を持つにはどうしたらよいか?

それはやはり、意識から外れるぐらいにルーティンワークにする他ないと思うのです。

呼吸というのは、1秒に1度ぐらいのルーティンワークです。

人間は1日にごはんを2〜3回食べます。これもルーティンです。

呼吸や、ごはんから我々は逃げません。

日課からも逃げてはいけないのです。

逃げないで、迎え撃ちましょう、ということです。