元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

創造的想像力(詩) 物語 小遣い帳 鉛筆削り

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 食品

今、たとえば食品メーカなどは、うかつに身体に害のありそうな製品をつくれなくなってきています。コンビニ製品も、ガンガンに着色料を入れてもOK、といったようなトレンドではなくなってきています。
これは、このような監視社会、になってとてもよかったという、メリットのひとつです。デメリットだけではないのですね。
企業組織のカウンターとしての庶民の口コミが、一大勢力になってきているということです。

人生観、のような、思想の話

  • 「思想」をしない時代

若くて、時間がある世代も、そうでない世代も、「思想」をまったくしなくなってしまっている、ということを、自分は僭越ながら憂いています。
でも、憂いていながらも、他がやっていなければ、自分だけが「やれている」と感じられてよいのですが。。

せめて自分だけでも、個性的であらんとするための一手段にすぎないのだとしても、独りであっても「思想すること」を趣味にしよう、と決めつつあるわけです。


もうひとつ憂いているというか心配なのは、もし仮に、時代が変わって、ヒトビトが思想することがトレンドになってきたとしても、すぐさまマスコミによって囲われて「型」にハメられてしまって、真に自由な思想ではなくファッションとしての思想にすりかわってゆくのだろうな、ということ。
おそらくそれは「あっという間」であろうと推測されます。

現代社会においてはすべてがパッケージ化、ファッション化され、型にハメようとする「魔の手」が存在します。
それはなぜ存在しているかというと、「邪魔者は消せ」というファッショが暗躍しているからですね。
庶民が自由な思想をしたり自由に表現したりすることは、ある「層」からみると「危険」にしか見えないのです。
だから、なるべく反対意見がでないよう、ゆっくりと確実に、懐柔して型にはめてゆく。ほとんどの庶民は気付かない。気付いたとしても「ま、いっか」と流してしまう。これこそまさに「思想」の訓練がされていないがためです。

思想とは本来千差万別であってわかりずらい、コムズカシいものです。それが、わかりやすくパッケージ化されている時点で「思想」ではなく、また、そのパッケージが売れるということは、パッケージ化された思想を買った人間が「コピペ」して取り入れようとするのですからそれも「思想」ではない。
二重の意味で「思想」ではない。

そして。。 「思想」でなくなったモノ、これが何になるかというと。。「イデオロギー」に変化するんですねえ。不思議なことに。パッケージ化を行う人間のイデオロギーが注入されてしまうのです。だから、思想というのは誰かの意思が介在することによりどうとでもなってしまう。
だから、自分で考えて自分の中で消化、完結させたほうがよいのです。ヘタなイデオロギーも消化してしまったら、しばらくするとタイヘンなことになります。

イデオロギー」にならないほうがまだマシですね。イデオロギーにすらならないものはただの「思想の断片」であり、よくわからないものです。

こういうのもマスコミの大罪のひとつなのです。マスコミは庶民から精神的思想的自由を略奪する。庶民は略奪されることが快感になってきている。そして、カンタンにいえば「バカ」になってきているのです。為政者からみて。


だからといって思想をやめることが得策だとも思わないのです。
それは「思考停止するための思想」であって、定義矛盾が生じます。
思想とはまず、とにかく考え続けるというのが大前提としてあります。それは、訓練すれば誰でもできます。逆にいえば、考え「続ける」ことは訓練しないとできません。
それこそ思想を放棄してしまった現代人には「考え続ける」ということはもっともキツい修行のひとつかもしれません。
そこを突破しなければ。

  • 写経はできるけど物語は書けない2

結局、物語を紡ぐことができる人間は限られている、ということです。それは、わかってはいるのですが。。
集団のトップになるべき人間と同様、そういうヒトも選ばれたヒトであることは間違いないのです。

「物語を紡ぐ」とはきわめて広義の解釈をしています。つまりは芸術的創造的であれば手段はとわない、ということです。
今、ちょっと考えてみるだけでも、演劇であったり、小説、絵などのアートもそうですし、建築、音楽、映画、そしてスポーツもそうです。
と、書いてきて、わからなくなってきましたが。。たとえば劇であれば、脚本を書くヒトもその劇中で演技をする個人個人であっても、物語を内包することができます。

物語を紡ぐ真似事は、誰にでもできます。これが大問題でして。。
残念なことに、その真似事によってつくられた偽物語により、一定の人数を感動させることはできてしまうのです。それは、世の中が真似事になってきているからです。(オタキング岡田氏のいう「クリエイティビティの消滅」とはこれでしょう)
と、いうことは、真に物語を紡げるヒトの、つくった物語によって感動するヒトの数より、偽物語のほうが数は多いのかもしれません。これが、問題なのですね。

「プロとアマの境界線があいまいになってきている」というコトバを援用はできますが、ちょっと違う。
真に物語を紡げるヒトは、もしかしたらアマチュアのほうが多いのかもしれないのです。大衆受けしないがために下野せざるを得ないというか。。

ホンモノがどんどん埋もれてしまうのですね。この国では。それが、残念でなりません。

ですから、とある物語があったとして、それがどのぐらいの数の人間を満足、感動させることができるか、と、定量的な尺度ではかってはいけないのだと思います。

前にも書きましたが、物語を紡ぐというのは、技術によってほとんどカバーできてしまうのです。
ということは、物語を紡ぎたいという衝動がないヒトも物語をつくることができてしまう。そしてそういうヒトが紡いだ物語のほうが大衆受けするという。。

もちろん、真の物語で大衆受けしているものもたくさんあるのでしょう。
でも現時点でとりうるスタンスとして、大衆受けしている「物語」はニセモノである、と考えておいたほうがまだ正しいのではないでしょうか。(【重要】マーク)


物語を「紡げる」ヒトと、集団のトップに「立てる」ヒト。
物語を「紡ごうとする」ヒトと、集団のトップに「立とうとする」ヒト。
物語を「紡ぐ」ヒトと、集団のトップに「立つ」ヒト。

これらのラインナップは、それぞれ違うのですね。
「紡げる」ヒト、「立てる」ヒトが、実際に紡いだり立ったりするとは限らない。いや、少なくなってきているのではないでしょうか?

これが、私の現代社会に対する不満というか。。
いっそのこと、なるべきヒトをとある国家機構が探し出してきて、育てて、ならせてほしいですね。立候補制ではなくて。
だから、政治の世界が酷い状況になっているのです。

なんだか、自分のムカシの書き出しを思い出しました。。
(以下再録)

最近、仕事をしていてとみに感じること。。

どの業界でも、「つくる側」に優秀な人材が集まっているはず、という共通認識が崩れてきているのが問題だと考えています。
昨今、仕事の現場では「つくる側」に優秀な人材が供給されていないのは、事実です。まずこれを認めなければなりません。

「クリエイティビティ」のある人材が優秀だ、というのは、理解しています。それは当たり前のことです。

ですがあらためて、勘違いしてはならないことは、
クリエイティビティを発揮すべき職種に、優秀な人材が集まっているわけではないのです。(これが【重要】)

「クリエイティビティを発揮すべき職種」には、その職種に「就きたい」と強く願う人たちが集まっているだけで、そこで能力が高い人が選抜されているわけではないのです。もしかしたら、単に思いが強い順なのかもしれません。

芸能の世界もクリエイティビティが要求される世界ですが、この世界を傍目からながめていると、それが顕著にわかります。

もちろん、能力の高い人がゼロであるといっているわけではありません。

たとえば、業界の有名企業に、何かしらのクリエイティビティを必要とする仕事を依頼しても、担当するのはほぼ100%、優秀でない人です。

能力の高い人は、慢性的に不足していますし、忙しいのです。あるいは、倍ぐらいのお金を積まないと請けてくれないのかもしれません。

(再録おわり)
ずいぶん前から憂いているわけですね。

自分について

そういう学問の「型」ではなくて、自分は、勉強したいという欲求はものすごいものがあるのですが、「何を」勉強するのか、ということについて、ものすごく遠回りして、自力で見つけています。

とりあえず社会人がロースクールに通うとかカルチャー教室に通うとか駅前留学をするとか、そういうのに対するこの違和感は、何なのだろうか。。

それも「トレンド嫌い」で結論づけていいのだろうか。
いや、おそらくそれでいいのですね。

私は今までの人生でとことん、学びたくないことを学んできましたので、その反動なのでしょう。
人生の後半戦は、勉強すること、知識を吸収して自分のものにしてゆくことで知的好奇心を満たされ、慶びを感ずるような生活をしたいなあと思います。
ますますインドア派ですね。。


  • 小遣い帳

小遣い帳をつけ始めてから、ゆうに20年は経過しています。
毎日というわけではありませんが、いつの時代もつけていたなあ、という気がします。
いろいろ変わりましたが。。最初はホントの市販の「おこずかい帳」から始まって、次にワープロ表計算機能を使うようになり、次にPCのフリーソフトをいくつか試して。。結局、今はexcelの自作家計簿に落ち着いています。10年ぐらいはexcelですね。。
原型は変わっていませんが、頻繁にマイナーリリースを繰り返しています。いつかはメジャーバージョンアップをして、大幅に使い勝手を良くしたいと考えてはいるのですが。。考え始めてからはや5年余り。。
目的も、最初はただの小遣い帳だったのが、「家計簿」にグレードが上がり、やがて家計簿よりも、確定申告のための帳簿という意味合いが強くなってきました。(確定申告を視野にいれたときにメジャーバージョンアップしておくべきだった!)

ハナシがそれてしまいましたが。。たかが家計簿であっても、20年も続けていれば、何かしらの感慨、達成感のようなものを、感じることができるのです。
それに、自分は自分でコントロールして、ムリをせず(でもちょっとムリをして)モノゴトを継続して続けてゆくことを、この「家計簿つけ」から学んだのです。
家計簿のおかげで自分の人生が良い方向に矯正されています。
今では身体が勝手に帳簿に向かっていますからね。。実際問題、ため込むと確定申告の際にタイヘンなことになるので、とにかくため込まないことが大事です。


でも、この20年の間にはもちろん、葛藤のようなものもありました。
若かりし頃は、「オレってももしかして。。セコい?」と自問自答していた時期もありましたし。。
バブル華やかなりし頃は、外では羽振りよくふるまおうと見せかけても、酔っ払ってウチに帰って、小遣い帳(現実)に向かい合う自分。。1円単位まで今日の出費をつけてる自分。。
まあ、ミジメといえばミジメだったかもしれません。良き思い出ですが。。
その頃はもっと刹那的、破滅的な生き方に憧れていましたから。憧れているのにボロアパートでは小遣い帳をつけている自分、というのは、今考えればそのコントラストはオモシロいですね。

それともうひとつの葛藤のようなものは、私はただ、客観的に状況を把握するために家計簿をつけているわけで、それは「節約」のためではないのです。
なぜ、節約のためにならないのに家計簿をつけるか? と他人に問われたことがあり、そのときはけっこう考えましたね。「あれ? そういえば、なぜだろう?」と。。

何万円も浪費したときも、淡々と、その数値を家計簿にいれる。「いや〜使っちゃったな〜」と、把握はするけれども、反省はしない。いや、一瞬は反省しているのでしょうが。。 すぐに忘れます。
反省するために継続しているのではないのです。

ただただ、これを「やらねばならぬ」と思っているからやっているだけであって。
仮にムダだと思い、やめてしまったら、自分が苦しいのです。続けているほうが自分にとってはよいのです。

今になればなんとなくわかってきます。
直接的に「ダイエットのため」とか「節約のため」とかそういう理由付けができる行動というのは、わかりやすくはあるのですが、もっとも動機がアヤしいものです。
「イヤラしい」に限りなく近い。

それと、効率化の観点はほとんどウソです。
「節約のためにならないのであれば家計簿つけるなんてムダじゃない?」という考え方は、ウソだらけです。それを進言してくるヒトは、まず、家計簿の継続「すらできない」人間ということでしょう。
そのヒトにとっては、ムダなことイコールやりたくないことに過ぎません。そのヒトは、やりたくないことをどんどん生活から削っていったおかげで、何が残りましたか? 私のように「継続」ができている人間に対する嫉妬羨望しか残らないのではないですか?
やりたくないことをやらないおかげで余った時間がすべて、テレビなり、ゲームなり、「ケータイいじり」なりに消えてしまうのでしょう。それならやりたくないことをやったらいいのに。
こういう生き方も、哀れですよね。。


私にとっても家計簿は、写経と同じようなものなのかもしれませんね。継続力と身につけるための修行であれば、それは家計簿でなくともかまわないという。。(極論すれば、です)

抜粋・紹介

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

「(略)驢が井を見るでも、井が驢を見るでも、いずれでもよいが、一方だけでは、二分性の考え方が抜け去らぬ。自分が花を見ても、木なり石なりを見ても、その花や石が、また自分を見てくれないと、本当の「見」という「事」は発生せぬ、成立せぬ。いわゆる共感とか、感情移入とかいうことも、一方向きでは、それは成り立たぬ。対境がまた主人公になるとき、アイデンティティが可能になり、そこに入不二法門が可能になる。東洋的な物の見方は、この体験を本として出来上がっている。「万物を見ること、おのれの面を見るがごとし」ということが、禅録にもあるが、これに理窟をつけないで、素直に、そのまま受け取る。東洋ではここから哲学なり何なりを発展させる。ここに根拠を持たぬものは、東洋では空論として、とりあわぬことにしている。つまり人間生活の具体性から遊離したものとして、重大な価値のないものに見るのである。」
「人生は夢幻泡影だといって、山の中に引っこむのが哲人の生活だとして、うらやむべきでもない。他の一面から見れば、一念万年だから、この一念の立場を無限に意味あるものにしなくてはならぬ。このような創造性を持ち得ない、あるいは体得し得ないものは、人間としての価値がないというべきである。すべてのものに、創造性はあるが、これだけでは、意味をなさぬ。これを認めて、自分の上に、体得しなくてはならぬ。この体得のゆえに「一念に普ねく無量劫を観、無量劫の事とは即ち如今である」と、道破し能うのだ。
これを「悟り」といってよい。そうして、これが最も東洋的なるものの真髄をなしているやに、自分は感じる。西洋思想史の上にも、これに等しきものがないでもない。いわゆる「神秘主義」なるものである。(ちなみに、自分はこの語を好かない。東洋的感じ方には「神秘」はない。いずれも眼前歴歴底だ)」
「西洋のネイチュアには「自然」の義は全くないといってよい。ネイチュアはセルフに対する客観的存在で、いつも相対性の世界である。「自然」には相対性はない。また客観的でない。むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。自他を離れた自体的、主体的なるもの、これを「自然」というのである。(略)西洋のネイチュアは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の「自然」は「人」をいれておる。離れるのは「人」の方からである。「自然」にそむくから、自ら倒れて行く、それで自分を全うせんとするには「自然」に帰るより外ない。帰るというのは元の一になるというの義である。
「自然」の自は他と対峙の自ではない。自他の対峙を超克した自である。主客相対の世界の「自然」ではない。そこに東洋の道がある。この道を再認識するのが、日本人にとりては、日本の再発見である。(略)」
「茶人が古器物を好む一つの理由はその伝統性にもよるのであるが、すべて古器物には或る種のやわらぎがある。新しいものには何もなく、かどがとれぬ。時代を経るということは、とげとげしさを消磨させる意味になる。古いというただその事実が、その物に対して何かしら親しみを覚えさせる。人間は「過去」から出て来るのであるから、自らその出処に対するあこがれを持つ。未来に対してもあこがれを持つが、まだ踏みも見ぬ天の橋立で、一種の危惧がある。これが希望である。過去には危惧はない。とにかく通ってきたので、このあこがれには望みはないが親しみはある。親しみはやわらぎに外ならぬ。」
「(略)この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはならぬ。この種の想像力を、自分は、詩といって居る。この詩がなくては、散文的きわまるこの生活を、人間として送ることは不可能だ。(略)文字は知らずとも、詩を心に抱くことは、誰でも可能である。この詩があると、地球をまわるなどということは、朝飯前だ。また、仏教でいう三千大千世界は勿論、今日の天文学者のいう星雲で充ち充ちて居る無限の空間そのものをも、この片手の中に握りしめて、無限のまた向こうの無限の先へ投げ出すことも、可能になるのである。(略)この詩がわかると、力に対する慾、我執を貫かんとする地獄の炎も自ら消えて、「自然」の真只中に、大昼寝をすることになる。「制服」などという有限で対峙的な世界など、夢の如し、幻の如しであろう。(略)」
(抜粋・紹介終わり)

  • 不二であるということ

「色即是空、空即是色」の私なりの解釈としましては、(ちょっとスピンしますが)
モノゴトを成すために、2つめの、より効率的な手段が与えられたときにどうするか。。
テクノロジーが進化した社会では、頻繁に発生するシチュエーションですね。たとえば、より便利な機能がついたケータイが発売され、買うか? 買わないか?みたいなときでしょうかね。

ここで自分はまだまだだな、と思ってしまうのですが、私であれば、仕事であれば、すぐさま効率にとびつく、仕事でなければ、すぐに飛びつかずにまず考える、といったところでしょう。

すぐに飛びつかずに機を待つ。そこには、熟考した結果として飛びつくという選択もあり、飛びつかないという選択もあるでしょう。

でも、最近の現代人のように、まず新しいモノに飛びつくときの言い訳を準備し、言い訳しながら飛びつくのは、ココロからイヤです。
いつも例に出すのですが、「ワカゲのイタリで。。」と言い訳しながら若い子を真似て茶髪にする30代が、4〜5年前に激増しました。今はだいぶおさまっていますが。
彼らは、「なんだ、やってもいいんだ」と、周りをきょろきょろしながらやっているわけです。若い子たちのブレイクスルーに従属しているだけなのです。自分たちの世代ではできなかったこと。
「ワカゲのイタリ」を30代になってからやらねばならない、という哀れさ。


ところで。。突然、鉛筆削りのハナシですが、
自分は、ナイフで鉛筆を削るなどまっぴらゴメンです。でも、ムカシ、多くの家にあった電動鉛筆削りにまでいくと、やりすぎなのではないかと訝ります。
自分の中での効率性の基準、というかしきい値、というか限界がそこにあるようです。
どこまでも便利になってほしいとも思わない。否、そもそも電動が便利だとすら思っていないわけですね。
利便性の増大に伴い怠惰さまで増大していくと、自分は違和感を感じ始めるようです。
ポケットタイプの鉛筆削りで、ゴミを少しためておけるヤツ、あれが、私にとってもっとも「ほどよい」便利さなのです。
ここからもう少し考えを飛躍できるかもしれない。。

  • ココロの「詩」

ココロの「詩」を持たず、ココロで遊ぶ術を忘れてしまった日本人は、すぐに実体験に走ってしまうのかもしれませんね。なにごとも経験しなければ気が済まない、という。。そこにつけいり、カネを巻き上げようとする産業たち。

想像力の欠如というのは、周りを見ていても感じますね。即物的というか。。
想像力と妄想癖とは、まったく違うものです。
予見というか、状況を見渡す能力ですね。仕事においても必要なもの。
想像力が欠如しているがゆえに「視野が狭い」ということになります。

「ココロ」における視野が狭い人生を送っているヒト、これからも送るであろうヒトはホントにかわいそうだと思います。目に見えるものがすべて、すべての価値ではないのです。