元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

何も決まらない人生 宗教の税金対策 生活の中の

人生観、のような、思想の話

  • 何も決まらない人生

結局、ある程度歳を取ってから考えますと、自分の人生というのは、何も決まらない、変動要素たっぷりのほうが、良いみたいですね。

良いというのは、ほどよい緊張感というか。。
ストレスを向上心に変えるというか。。

「決められたレール」を渇望していた時期も確かにありますし、そういう人生もとても良いと思うのです。
でも自分には合わない、ようである、という結論づけは、だいぶ遅かった。

なぜなら、誰かがレールを敷いてくれると思っていたからです。
自分がレールを敷かなければならない。言い方を変えれば、自分が自分のレールを敷いていいのだな、と思ったんですね。

「何も決まらない」ということは外的要因により何も決まっていかないということであって、自分で決めてしまえばどんどん決まってゆく、と。


考えてみればあたりまえなのですが。。
なんで気付くまでにこんなに時間がかかってしまうのか、なんて、思ってしまいますが、
これは、20代〜30代前半までに「考える」ことを放棄したツケなのでしょう。

「こうありたい」または反面教師

  • 生活の中の表現素材

たとえばエッセイ、随筆を書こうというときに必要なのは、「技術」と素材ですね。

まるで中華料理のような。。 上質の素材であればさっと味付けしてさっと炒めるだけでよい。

その「素材」を集めるのにはおそらくふたつのアプローチがあって。。
常にオモシロオカシク、文章にしてもオモシロいような生活を実践しようと心がけるか、あるいは、生活そのものではなくて「感受性」のほうを重視するか。

前者はなかなかムズカしいものがありますよね。だから、ムリヤリオモシロオカシい生活をでっち上げようとしてしまう、というか。。
とある刹那的なイベントがたまにあったとしたら、異常なほどにそれをピックアップして、あたかも生活全体が楽しいかのように錯覚させるようなゴマカしをするとか。。
他人に対して、自分は「けっこう」面白い生活を送っているのだ、と主張したいときに使う、現代人に必須の手法ですよね。

そもそも日常に不満足感を持っているヒトたちがそういう、エッセイの素材に耐えうる生活を送れるわけはないのです。


後者もなかなかクセモノであり。。
なぜなら、「感受性が鋭い生活」を意識的にやるということ自体がウソくさいですから。

ムカシ、ひととき存在した「不思議ちゃん」と呼ばれたヒトたちが、そうでしたね。
今でいえば「天然」とよばれる人たちが「不思議ちゃん」の意志を継承しているのかもしれません。

毎日がオモシロオカシく過ごせる人間がめったにいないのと同様に、真に感受性が鋭い人間もほとんどいません。

毎日がオモシロオカシい生活を送っているかのように見せかけるヒトがたくさんいるように、「ワタシ、感受性が鋭いヒトだから」と宣言してそう見せかけているヒトもたくさんいます。


話がだいぶそれましたが、結局、生活の中に良質な「素材」を見つけられるかどうかは、そのヒトの生活全体の質そのものが問われるわけですから、付け焼刃ではどうにもならない。

生活全体の質を上げたいのだったら生活を豊かにするしかなく、そのための手法はこの日記でも断片的に書いていることです。カンタンにいえば、この高度資本主義社会において生活を豊かにするキーワードは「努力」と「継続」に尽きます。

そうではなくて、ほとんどのヒトたちは「努力」と「継続」をはなっからやろうとしないわけですから、そういうヒトたちは「技術」を磨けばいいのです。

技術という逃げ場は、あるのです。

もう少しひらめいたら、続けます。。


死、あるいは宗教に近い話

  • 税金対策

結局のところ、とある「教え」をする団体がなぜ宗教法人化したいのか、といえば、ズバリ節税でしょう?

とある「教祖様」が(見下している)庶民に「伝道」する場合、それは必ずしも「宗教」の形式をとらなくてもいいわけです。そして、伝道した対価としてカネを受け取る必要もない。
ここで見え隠れしてくるのが、昨日取り上げた糸井重里さんのコトバ「善くあれ」に近いもの。。

何かしらの「インスピレーション」(「教祖様」およびその周辺はそれは「悟り」であると主張する)を得て、それを人に(「善かれ」と思って)伝道することは、それが「高尚である」というプライド―間違っていますが―、そこが発端なのですね。
だからこそ、伝道して「やってる」のだから対価をもらうのは当然、とか、なんで自分は税金を払わにゃならんのだ、とか、そういう考え方にシフトしてゆき、あげくのはてには自分のインスピレーションを狂騒的に絶対視するがゆえに「なぜ皆がワタシにひれ伏さないのか?」と思ったり、賛同しない人間、集団を強制的に排除する方向にいったりします。極端になるとオウムのように国家に反逆したりするようですが。。 そこまではしないでしょう。国家には従っておくことが得策だ、という共通認識はあるでしょうから。


ところでその「伝道」というものが、ひっそりと、粛々と伝わってゆけばよいのですが、その伝道という行為自体がなぜかだんだんと「劇的」に、いや、「演劇的」になってゆくわけですね。つまり、ウソっぽくなるわけです。
これは、熱狂的要素を帯びさすための一手法にすぎないのですが、ここまでくるともう、その集団の「延命」が入っていますよね。
人集めして、カネを集めて、「サークル」を維持しようという。。

ホントにホントに、何かヒトに伝えたいことがあるのであれば、見下してカネをとるのではなくて、托鉢でもしてみればよいでしょう。


それにしてももともとそのインスピレーションはほぼ「ウソ」なのですから、その伝道が徐々に「ウソっぽく」なってゆくというのは皮肉というか、自ら馬脚をあらわしているわけで、おもしろいですね。

祈祷というのは本来黙って念じていてもいいのです。精神世界と交霊するわけですから、現代社会に発信するためにコトバを発しても意味はない。なにかわけのわからない念仏だかまやかしだかを唱えて数珠でもさすっていたほうが「演劇的」であり、視覚効果も高いからそうやっているだけです。

ホントに、ヒトが強く念じたり、祈ったりするときって、コトバをなくしますよね。それが自然なのです。

抜粋・紹介

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

「(略)論理で論理を非論理させたり、言葉で言葉を打ち消したりするうちは、入不二法門にならぬ。不二は、この中に飛び込むことによって、はじめて体得せられ、体取せられ、道取せられるのである。
(略)「飛びこみ」の体験を「横超」とも「飛躍」とも「直入」ともいう。そのほか、いろいろの名がある。つまり崖の上に立って、底も知れぬ谷の中に飛びこむことなのである、無限に虚なるものを見て躊躇することなく、その真只中に飛びこむことである。これを知的に表現すると、「悟り」ということになる。いわゆる禅者の「見性」である。東洋の人はこの悟りの経験なるもののあることを、実際自分で経験しなくとも、聞き伝えなどで、知っている。これが強みである。西洋には、この悟りに相応するいい言葉が見当たらぬ。似たようなものがあっても、東洋人の耳には響かない。不二の中に突入すること、これは、東洋では、すべてに芸能的生活の妙処となっている。禅者は、ことにこれを生活の全面にとり入れる。すなわち人間生活そのものをもって、一種の美的作品に仕えるのである。(略)生活様式がそのままで、美術的作品となる。ここではじめて不二入門に「入る」ことができたのである。本当の創作はここで可能になる。人間が「生きて」いるといわれうのはこの時以来のことである。」

(抜粋・紹介終わり)