元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

 「善くなければ吊るせ」

「こうありたい」または反面教師

  • 自己顕示欲

「自己顕示欲」以外の目的で、とにかくただ、「表現」をしたい、という純粋な欲求を持っているヒトが、今の若い世代にいるのでしょうか。表現したいもの、というのがこう、マグマのように沸いて沸いて仕方がなくて、でもその表現の方法がわからない、というような。

そういう衝動みたいな感じは、かつては若者の特権でした。

でも今は何か違うような。
まず自己顕示欲ありきで、そして、それを表現するための「技術」。「何を」表現するかは、その後にとってつけるような。。

そんな「表現」であっても、一定の人数の共感を得ることができてしまうのです。なぜならば、似たもの同士だから「共感」しあえるのです。

  • 国会議員は国益を追求すべし 2

なぜ「政治不信」なのかといえば。。
政治家が凡人に見えて仕方がないからですよね。
「あんなヤツら」が国政を決めてゆくのかと思うと。。

あのテイタラクでは、いわゆる「官僚」に牛耳られるのは当然、といいますがそのほうがまだよいのでしょう。
官僚は選抜制度がありますからね。

でも、どうも平常時でない選挙だと、「玉石混交」の中の「石」が大量に混じってくるように思います。
いや、あるいは、政党というのは「石」を増やそうとしているのではあるまいか?
アタマのキレない凡人が国会の議席に座っていたほうが、いろいろとやりやすいのでしょうかね。


マスコミによる官僚批判は、あれは一体誰が上げたアドバルーンだったのか。。
あれによりまんまと、民意は「官僚キライ」に傾きましたね。
ある程度の批判精神は確かに必要だとは思いますが。

「官僚キライ」でも、政治家がその反動を受け止める器が皆無です。

とにかく、政治家にはある程度の器は必要。官僚は、トップに行かないヒトたちはそれほどの器は不要。官僚で器のあるヒトは政治にいけばいい。
政治家に必要な「器」を持っている人材がどれほどいるのか?
「器」というのは努力でどうなるものでもないのです。

抜粋・紹介

  • イトイ新聞

今日のイトイ新聞で糸井重里さんが書いていた「善くあれ」「善くなければ吊るせ」というのは、ズバリですね。。
「人間のやらかすだいたいの大悲劇には、このテーマ音楽が流れているように思います。」と。

問題は、なぜ、とある集団、あるいは国家において、ただそのときのトレンドにすぎない「善いこと」から逸脱した人間が吊るし上げを食らわなければならないのだろうか? ということです。
放っておけばいいのです。「悪いこと」をしない限りは。


新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

「われら人間は、こうして生きてゆくとき、なんとなく束縛を四面に受けている。(略)これがわれらをして一般的に不安を感ぜしめるものである。これを離れて自由に、創造的に、自主的に、一生を過ごしたいとねがう。(略)それで何かの方法で、これらの制約から離れたいとする。これが第一段である。それが、師匠につくなり、自分で考えたりなどして、何かの知解覚悟があったとする。これが第二段。次には、その知解なるものに執著して、「自分にはこれがわかった、これが悟れた」などいう意識が出てくる。そうすると、その意識に執著しようとする、最初の執著とはちがうが、その執著たるに至りては、同格である。これがまた禍いの基となりて、本来の自由を拘束する。それで第三段として、この執著からまた離脱しなくてはならないのである。そうしないと本当の自由、本当の自主性を体得することが不可能である。
このようにして、第三段をも乗り越えることができると、ここにはじめて「自由の分」、「自由独立の分」ありということになる。仏をも求めず、魔をもおそれず、極楽に入り、地獄に行き、「生きんと要せば生き、死せんと要せば死する」というほどに、去住自在を得ることになるのである。」
「地獄は集苦の停留所といわれるが、認識論的に見れば、言語・文字・分別・意識・概念・分析の隠所にほかならぬ。人間が自分で造り自身で行くところなのである。他人に罰せられて、罪の償いをする監獄ではないのである。それで、時節が来ると、そこから出て、自分の運命を、また新たに開きうるのである。
極楽というは、言語・分別などというものが、それぞれに適当な役割を果たして、それ以外の領域に侵入することをせぬようになり、そこではじめて安心のできる家郷が見つかる。それを極楽という。もしこれに反して、極楽が仏典に説くようなところであったらば、それはむやみに分別をすてよというので、人間は一日もいたたまれぬ。長居をすると、いずれも人は痴呆となる(略)極楽往生の人々は、往生の刹那にまた娑婆に来るか、地獄の真中にとび込んで、いたずらなる分別の、苦悩の煩わされ、日夜に責められる精神病者の救済に、没頭するのである。そうしてこの地獄なるものも、娑婆以外に存在しない。娑婆そのものの又の名でしかないのだ。極楽は永住の土では、決して決してないのである。
それからまた知っておかなければならぬのは、文字や分別の世界を超越するところに、極楽があるように考える人も多かろう。(略)が、この超越とか、隔絶とかいうのは(略)横超であることを忘れてはならぬ。そうしてこの横なるものは、横ざまに飛び出るの義ではなくして、その中に飛び込むの義なることを忘れてはならぬ。(略)
もう一ぺんいいなおせば、元どおり、本具の人間性に還ることである。「還る」ことが大事なのである。仏にならないで、仏になりきらないで、もとの凡夫になることである。禅者のいう「平常心是道」である。それは何かといえば、飢えては食らい、渇しては飲むことである。疲れたら寝て、起きたら働くことである。それは、犬猫の生活とどう違うのかと尋ねれれよう。別に違わぬ。が、また別に大いに違うところ、(略)それは人間にのみ許されている自覚である。(略)
大人は小児の心を失わずといい、また天国は赤子のごとくにして、始めて入ることを許されるというが、それはただの赤子になるのではない、大人の赤子である。分別を具えた不分別である。迷い迷いての後に出来た、大人の赤子である。(略)極楽参りをなしおえたものは、ただこのままのものでない。地獄へも天堂へも、大手をふって出入自在底の無依の閑道人である。」
「(略)禅そのものとは何か。これはあまり一般向きではないかも知れぬ。しかし真正面からいうと、人間としては、ぜひ、禅を解しなくてはならぬ、と自分は考えているが、これは、誰にも彼にもというわけにはいかない。(略)わかっている人は、少なくとも、そんなものがあると、信じているだけの人でも、人生の危機を切り抜けるに役立つ…個人的にも、集団的にも。
改めていうまでもないが、禅の本分は、(略)さまざまの名目はあるが、つまりは自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。単なる概念的把握ではなくて、感覚の上で、声を聞いたり、色を見たり、香を嗅ぐなどするように、心自体が自体を契証する経験である。形を見たり、声を聴くというと、聞くものと聞かれるもの、見るものと見られるものとの二つがあって、相対峙することとなる。ところが、心自体の場合では、能所的対峙がない。(略)一つが二つに分かれて、見られるのでなくて、一つが一つを、一つと見るのである。ただ言葉の上に出すときは、一つとか二つとかいうが、心自体の場合には、この種のいい方は当てはまらぬのである。それゆえ、見て見ず、見ずして見るなどと、矛盾したことを言う。(略)」

(抜粋・紹介終わり)
私はずっと前から「横に逸れる理論」を提唱していますが、大拙殿のいう、仏教でいう「横超」は少しはあたるのではないかと思うとうれしいですね。
とある境地、あるいは目的などにたどりつくためには、正面突破は、いつの時代も、必ずしも得策ではないのだ、ということを言い表しているのではないか、という私なりの解釈ですが。。
横に逸れるというのは現世からの逸脱、逃避という意味ではありません。「ちょっと逸れてみる」ということです。そこには「ちょっと考えてみる」という意味も含まれています。

再録・継続

  • 素直に言うことを聞くことの大切さ(20070321)

コドモと初めて自転車練習場(指導員付)に行ったのですが、2時間ぐらいでもう自転車に乗れるようになっていました。

まず、親としては少し感動。。 感動なんて、久しく味わったことがなかったです。

また、たった2時間の間で急激に上達してゆくコドモを観察しながら、いろいろと考えることがありました。

良き指導者がいて、その方の適切な指導を素直に聞いて実践していれば、伸びるのも早いのだ、ということ。

コドモは、一緒に習っていたグループの中で、上達が明らかに早いほうでした。これは運動神経の問題ではありません。指導員の方の言うことを素直に(「愚直に」?)聞いて、反復練習を繰り返していたからです。上達が遅い他の子は、言われたとおりにやらずに自己流に走ったり、すぐ親御さんに「つかれた」と言って休んだり。。 まず「やる気」と「従順さ」をみせないのです。おそらくそういう子は、無理やり連れてこられたのでしょう。

なぜコドモが指導員の方のいうことをしっかり聞いていたか、といえば、怖かったんでしょうね。。知らないオジサンたちが。オトナをナメない子供は、幸せになれるんだろうなあ、と思いました。

途中、コドモも反復練習に飽きてくる時間帯がありました。そこで親の登場となります。「アメ」を与え(ジュースとか、「すごくいいよ」というホメ言葉など)「ムチ」も忘れず。。

つまり、コドモを教え、育てるのは指導員任せではダメだ、ということです。指導員の方は、全員をマンツーマンでみれるわけではないのですから。

また、上達の途中の、単調な反復練習の中で身体が何かしらの「感じ」を会得し、そこに到達できた子だけが次のステップへと飛躍的に伸びてゆきます。ここでつまずくと、練習が「つまらない」と感じてしまい、そのネガティブな感情が上達の妨げになってしまいます。それをなんとかして防いでゆくのが大事です。


今日、いろいろと考えたことはすべてオトナの世界にもあてはまる話だなあ、と思いました。もちろんビジネス、会社の世界でも。

(再録終わり)