元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

河合×よしもと 売れる あきらめてもらう他ない 逃げる

本来の日記部分

近所を自転車でふらふらしていたら、小さい子供が自転車の周りで遊んでいて、ひとりでオトナの自転車に乗ろうと試みたのかなんなのか、荷台をぐいっと引いたら自転車ごと倒れて、半分自転車の下敷きになる瞬間を目撃したのです。
母親は、その付近にいたので血相を変えて飛んでいきました。
が、自分は。。 たぶん時間にして1秒ぐらい、その光景をぼーっと見てしまったんですよね。。
それが、自己嫌悪というか。。 反射的に身体が動かない。
その瞬間に考えたことは(今思い返すと)
助けなきゃ=>母親が動き出した(母親に任せるか?)=>距離的に同じぐらい(ということはダッシュすれば自分のほうが早く着く)=>倒れた自転車を上げたり、男手が必要かも=>じゃあ行こう!
これで1秒ぐらいかかってしまっている。
で、自分は、一旦自転車を降りて、自転車にスタンドをかける、という行動を先にしなければならないので、また遅れる。

結局、その子は頭も打っている様子もなく、自転車にはさまれてケガをすることもなかったので、一安心でした。
自分のほうがタッチの差で早く現場についたので、自転車をどけることができた。

お礼は言われたのですが、なんだか恥ずかしいというか、「あんまり自分の行動は意味なかったかも」なんていう気持ちが先にあって、「よかったですね」とかいってそそくさとその場から逃げるように走り去りました。

良いことをしたのは間違いないのですが、不完全燃焼といった感じでした。

再録・継続

最近、仕事をしていてとみに感じること。。

どの業界でも、「つくる側」に優秀な人材が集まっているはず、という共通認識が崩れてきているのが問題だと考えています。
昨今、仕事の現場では「つくる側」に優秀な人材が供給されていないのは、事実です。まずこれを認めなければなりません。

「クリエイティビティ」のある人材が優秀だ、というのは、理解しています。それは当たり前のことです。

ですがあらためて、勘違いしてはならないことは、クリエイティビティを発揮すべき職種に、優秀な人材が集まっているわけではないのです。(これが【重要】)

「クリエイティビティを発揮すべき職種」には、その職種に「就きたい」と強く願う人たちが集まっているだけで、そこで能力が高い人が選抜されているわけではないのです。もしかしたら、単に思いが強い順なのかもしれません。

芸能の世界もクリエイティビティが要求される世界ですが、この世界を傍目からながめていると、それが顕著にわかります。

もちろん、能力の高い人がゼロであるといっているわけではありません。

たとえば、業界の有名企業に、何かしらのクリエイティビティを必要とする仕事を依頼しても、担当するのはほぼ100%、優秀でない人です。

能力の高い人は、慢性的に不足していますし、忙しいのです。あるいは、倍ぐらいのお金を積まないと請けてくれないのかもしれません。

(再録おわり)
現在休刊中の自分のメルマガより。
我が文章ながら「そうそう、そのとおり!」と言ってしまいそうです。これは、「クリエイティブ」を要求される業界で実際に起っている事実(悲劇)なのです。才能が求められるポジションに才能が集まってこないという。。

用意されている「ポジション」が単に、多すぎるんですよね。真に才能のあるヒトのパイは常に少ないにも関わらず。。
だから、才能があるように見せかけているニセモノが跋扈し、そのポジションにまんまとおさまるわけです。
プレゼンの魔力によって。。

企業側も、ダマされないように気をつけないといけませんよ。
とはいっても、たまにはダマされてみて反省する必要もあるかもしれませんね。


「こうありたい」または反面教師

  • 「課」について蒸し返し

なぜヒトは「課」(日課、週課など)を何かと理由をつけて放棄しようとするのか?
たとえば、早起きする必要があるのに、寝坊する。。 家族を養うための仕事を休もうとする。。 部屋の掃除をなんとかしてサボろうとする。。

「楽」をしたいから、というのはわかりますが、最近のヒトたちは、実際「課」から解放される(つまり、表層的な「自由」になる)と、「何をしていいのかわからない」状態に陥ります。
何か、目的があって「課」から解放されたいわけではないから。ただ「楽」をしたいからに過ぎないからです。

そしてさらに、「課」なんかやりたくない、といっていたヒトが、実際それを「取り上げられる」と、「オレ(アタシ)にふさわしい『課』をくれよ」とか言い出します。。
それは、サイテーだと思いますね。

  • あきらめてもらう他ない

先日、「あきらめてもらう他ない」ということを偶然書き出したのですが。。

それは、自分がひんぱんに無礼なタクシー運転手を見るので、自分はもう、「タクシー運転手は無礼である」という偏見を持ちました、と。これはもう揺ぎないものになってしまった。
で、おそらく、99%以上の、ごく普通の善良なタクシー運転手の皆さんには「あきらめてもらう他ない」ということなのです。その業界にいる限りは。
1%未満の、無礼なタクシー運転手を恨んでください、と。もっともっと、同業者を憎んでかまわないと思うんですね。

これと同じことがいろんなところに応用できるなあ、と。。
自分が偏見を持つのは、自分の体験の積み重ねからです。一度だけの「事故」により偏見を持つことは決してありません。

たとえば10年ぐらい前、ごく普通の女子高生たちは、「アタシたちは援助交際なんてしない」と、世間の悪いイメージを作り上げている元凶である女子高生たちを憎憎しく思っていたことでしょう。一部の善良でないヒトたちのために、世代のイメージが醸成されてしまうのです。マス・イメージというのはそういうもので、一部の強烈な素材に振り回されます。その素材の一瞬の輝き(良くも悪くも)に吸い寄せられてしまうのです。
善良でなかったヒトたちはもっと憎まれるべきなのです。「取り返しのつかないことをした」と思わせるまで。

私は、犬を飼っているヒトたちは、広い公園に行くと途端にリードを放して他の市民に少なからぬ恐怖感を植え付けたり、誰もいない深夜に散歩して犬に自由に糞をさせたり、ペット禁止のマンションでも「自分の癒しのためにゼッタイに必要」と、公共の迷惑を考えずに自分のわがままを押し通したり、などなど、犬を飼うヒトたちはそういう「マナー無視」をする素養を持っている、と確信しています。だからこそ、犬を飼うのだと。

「ペットに癒される」という類の発言をするヒトは、公共のマナーを無視してでも自分が癒されたいと思っている、と確信しています。

ですから、70%(?)以上の善良な、犬を飼っていてかつマナーを守るヒトたちには、あきらめていただく他ないのです。
公共のマナーを無視してまで犬に癒されたいと思うヒトたちはもっともっと、犬を飼う仲間たちから憎まれるべきなのです。

私は、大型トラックの運転手は間違いなく、「道路」という世界でヒトを見下すためにあの仕事をしているのだと確信しています。

などなど。。




死、あるいは宗教に近い話

  • 都合の良い信仰の選ばれ方

また「宗教イコールダイエット説」の話。。
苦行をする必要があり、成仏はできるが現世では快がない、というのであれば、信仰としての「うまみ」がないわけですよね。
楽をして、死後ではなくて現世のうちに何かしらの「快楽」を享受できるほうがいいわけです。
信仰により「快楽」を享受したい、というのがそもそも矛盾していますが。。
現世の「うちに」と、現世とその後を分けるというのも間違っているような気も。。


「救われたい」とかそういう欲求というのは現代社会では「快楽」に内包されます。

とにかく、「楽してやせれる」ダイエットにそっくり。。

やはり、いつもの結論かもしれないけれど、一次的なところにとどまってしまってメタ的なところまでいけないというか。。

このへんの説明が難しい。信じて、救われる。現世で救われる。それで終わり? みたいな。。

そもそも宗教の目的というのは現世で救われるためにあるんでしたっけ、と。


自分を救うのは自助努力でやってほしいんですよね。。

この世の無常観を払拭するための手段として、とりあえずその場しのぎの一次的な享楽で塗り固めてゆく。
すごく、現代的な生き方といえますが、それと「信じるものは救われる」の具体的な差異がみえないのです。
いや、同じレベルにあるとしか思えないのですね。

新興宗教と会社組織は似ているような気がしたのですが。。どちらも主に戦後に発展しているものですし。。

最初にテーゼを立てたので、深く考えてみましょうか。
「ムカシの」日本的会社組織と新興宗教が似ている、ということでしょうかね。

今もそうですが、キツいノルマで上司も部下も血走ってるような現場というのは、あります。
あの「目」が似てるんですよね。

自分のノルマのために、アカの他人を「勧誘」する、というのも似ていますし、「良い製品だから」(買ってください)というのも、「救われますから」(入会しませんか?)というのも、同じです。
要は資本主義社会ですから、カネです。

カネがないと企業体も宗教法人も維持できないわけです。


組織を巨大化してゆくための手法として、同じことをやっている、というわけですね。


でも、異なっているかもしれない、と思うのは、最近は、ワンマン社長、というのはあまり見かけません。
新興宗教は、常に絶対的存在が存在しないと成り立ちません。(「新興」宗教は成り立たないだけであって、宗教というものはそもそも絶対神は必要としないはずですが)

ということは、ベクトルは違う方向に向かっている。。?
新興宗教はますます先鋭化、原理主義化してゆくのに対して、会社組織は以前と比べてだんだん「まったり」としてきている、というか。。

いや、違いますね。新興宗教の手法は、変わらないのですね。こちらは、現代人は変わりつつあるのですが、必死につなぎとめて維持している、と。会社組織というのは、変わってゆかざるを得ない。つまり、今の日本全体と同様、信仰するものがない、ということが逆に幸いして、利益のためにどんどん企業体を変容させてゆくことができます。
柔軟性、ですかね。

新興宗教は、絶対的存在の下に明確なヒエラルキーがあり、硬直化することが存在意義のようなところがありますからね。。


結論としては、一部に残存する軍隊的な、超体育会的な会社だけが、新興宗教と共通項がある、ということになりますか。
でもそれって地方に結構残っているのではないでしょうかね。よくわかりませんが。。

あまりうまくまとまりませんでしたね。

自分について

  • 「売れる」

ムカシからよく芸能ゴシップで目にするのは、ちょっと売れて、チヤホヤされる&ゼイタクな暮らしを一度経験してしまったら、生活レベルを落とすのはとてもたいへんだ、ということです。
えてして、ぽっと売れてしまって高飛車になってしまい、その後の努力を怠ったヒトほど、落ち目になるのも早いという。。
そして某芸能人のように、生活レベルを維持することを最優先させるために、恐喝(もっとも直接的にお金をゲットできる手段! そしてもっともリスクが高い手段!)により世間を騒がせてしまったり。。


この現代社会では、一度高みに行くことよりも、高みの状態で努力を継続するほうが断然難しいのではないかと思います。
ほとんどのヒトは、逆に、前者のほうがムズカしいと考えているのでしょう。

売れたからといってゼイタクな暮らしをするほうが間違っている、という意見もあるでしょうが、それはムリな話で、売れたヒトがゼイタクな暮らしをするのは、「時代の要請」なのですね。
そこから逃れるわけにはいかないのです。

ですから、自分のおかれている状況をわかっているヒトは、売れてから、世間的にみればゼイタクな暮らしを維持するために、死に物狂いの自転車操業を始めるのです。
そこから落ちたときにどれほど苦しいかを想像できるから。。

それでも、売れる売れないというのは丁半バクチのようなところがありますから、いくら努力してもどうにもならないことも多々あります。


「じゃあ売れなきゃいーじゃん」という考えもあります。
でもそれを言ってしまったら、現代人の向上心そのものを否定することにもなります。


ここまでが前口上で、ここからは個人的な話になっていきますが。。

自分も、表面上は否定しながらも、「チヤホヤされる&ゼイタクな暮らし」を一度は体験してみたいなあ、という憧れを消し去ることはできません。

「別に売れなくたっていい」とうそぶくのはまさに「すっぱいブドウ」なのです。


最近、あらためて考えているのは。。(以前の考えの焼き直しにすぎませんが)
まず、宗教とのカラミで、一度そういうステージに引きあがらないと、次のステップ(「悟り」のようなもの)には進めないのではないか、と。
お釈迦様も、裕福な家庭に育ち、そこで決心して苦しい修行行脚の旅に出なければ悟りは開けなかった。その落差を経験していたからこそ「対機説法」は有効に機能し、かつ説得力もあったはずなのです。
これが今の自分の悩みどころでもあります。

自分は、一度ゼイタクな暮らしを経験したとして、また「落ち目」になったとしても、「すっと」それ以前の生活に戻ってこれるような気がします。なぜなら、そのために「修練」に似たようなことを今しているから。もうひとつは、そのゼイタクな暮らしは有限である、という諦観がそのとき働くだろうから。
そのあたりは自分を信頼しているのですね。

自分は「痩せっぽち」であったがゆえにプロレスラーに憧れたりしましたが、それよりも、「サバイバル」に関連することについて、人よりもたくさん考えてきた自負があります。
それはもしかしたら、「痩せっぽち」だったからではないか、と今になると思います。

マジメに考えるきっかけとなったのは、ちょっと頭を整理したところ、3つありました。
以前の日記に書いたかもしれませんが。。

まず、コドモの頃、テレビをみていると、暗い夜道で女性がコワいヒトたちにカラまれるシーンで、自分は画面を直視できなかったんですね。テレビの前から逃げ出してしまっていたわけです。(余談ですが、ムカシのドラマでは、女性が突然襲われるという展開はあまりなくて「よーよーねーちゃん」で始まるシーンが多かった)

そこで、パターンとしては、その女性の彼氏が出てくるのであれば、ボコボコに殴られて終わりで、彼女が優しく介抱してあげたりします。女性からみると好感度大幅アップなわけですね。男性がボコボコにされたにも関わらず。
もうひとつのパターンとしては、彼氏はいない設定で、カッコいい二枚目が颯爽と登場して、何人かのコワいヒトたちをなぎ倒して、女性を助ける、というパターン。
これだけで女性の目はもうハートマークです。

こういうシーンを見て、「オトコは、コワいヒト(しかも複数)に対しても、立ち向かわなければならないのか…」(この「・・・」が大事)と、思ったのがひとつ。

次に、キャンプとか野外活動とかで、自分がブキッチョであるがゆえに何度も感じた絶望的無力感。
学校の中ではけっこうイケてるのに、なぜ外ではこうもダメなのか、という。。

あとひとつは。。
これはけっこう最近ですが、碇シンジくんの「逃げちゃダメだ!」の連呼です。
あの連呼はけっこう、効きましたね。
とはいっても個人的には、カンペキな人間であったはずなのに、グズでノロマなシンジに結果で負けることにより何かが崩れてゆく、という惣流・アスカ・ラングレーのほうにどっぷり肩入れしていましたが。。これは余談です。


この3つのきっかけは、自分の中では何ら関係はなかったはずなのですが、実は現在に近い自分に密接に絡み合って影響しているのかな、と考えたりもします。


で、本題に戻ると、
「サバイバル」について今、考えるのは、「逃げちゃダメか?」ということですよね。

なぜ、凶器を持っているかもしれない暴漢に素手で立ち向かわなければならないのか。。 それは、テレビがつくった偶像でしょう。
自分の妻子がそういう状況に仮に陥ったら、警察に通報すればいいのではないか?
あるいは立ち向かうのではなくて土下座のひとつでもすればいいのではないのか?
そういう選択肢は否定されるのか?

そもそも、そんなことを考える前に、そういう状況を回避しておくのが、真のサバイバルであり、「男らしい」ではないのか? と。
以前は、ヒネクレてそういうことを考えていましたが、今はこれが絶対的に正しいのではないかと確信していますね。

どう考えても「逃げるが勝ち」いや、「逃げるが価値」なのです。

サバイバルを夢想する前に、我々はこの現代社会を生き抜いているわけですよね。様々な責任に押しつぶされそうになりながら。
それ以上何を望む? みたいな。。 この「コンクリート・ジャングル」自体がサバイバルではないですか。この世界で必要なのは、凶器ではなく「マネー」でしょう?

現代社会を生き抜くことで精神的にも疲弊している状態で、なぜアウトドアでも同じようなことをやらされなければならないのか?

もしかして、私以外のヒトたちは、現代社会を「サバイバル」しているという感じすらないのでしょうか?
いや、ないのでしょうね。安穏とした平和の中で暮らしているから、その原罪を払拭するために、大自然で「プチ」不自然なアウトドア・ライフを「期間限定」で行っているのでしょう。
意味のない。。

抜粋・紹介

なるほどの対話

なるほどの対話

「吉本 学校、つらかったですねえ・・・。だから、学校みたいなものが、もう一度、訪れると思っただけで、ドキドキ、びくびくしちゃいます。(略)
自分がすごくつらいと思っていることを自分も知らなかったんですね。学校には行くものだと思い込んでいたから。学校って、行くんだよなあって。ほんとに、つらかったです。「いいことがなかったのか」と訊かれたら「あった」と答えると思うのですが、でもそれは、「学校だから」というのではなかったように思います。・・・私みたいな人は、これからどうやって生きていくんだろう。
河合 そういう人たちは、ほんまに、ぼくらがカウンセリングで会っている人たちです。ものごとをよくわかっているんだけれど、集団の中には入っていけないんですね、いまおっしゃったとおりで。ある人が、ばななさんのような状態がひどくなって、病気のようになって、それが治って社会に帰っていくでしょ。で、その人たちがいちばん苦手なのが、その会話なんです。(略)」
「河合 (略)クリエイティビティというのは、もっと鋭いからね。「和を以て貴しと為す」なんて言ってたら、クリエイティビティにならないでしょ。和を突き破らないと。
吉本 私の数少ない友だちには強烈な人が多いです。全員が部屋に集うと、みんな、ぐったり疲れて(笑)
河合 (略)集まるのはときどきにするとか、上手にアレンジしないと長続きしない。少数精鋭というけれど、少数精鋭のグループは絶対ダメなんです。(略)精鋭でない人が混じっているから、だいたいうまいこと行くんですよ。(略)そういうグループで、鈍い役で入ってる人もいるんですよ。(略)そういうことをわきまえてクリエイティブな集団に入っている人もいます。そういう人がいてくれないと、さっき言われたように、研ぎすぎた刃ばかりが当たることになるからね。(略)でも、そうしているうちに、「自分もクリエイティブな人間なんだ」と錯覚を起こす人が出てくることがあるでしょ。そうなると悲劇が起こる。」


「吉本 (略)いま世界のなかで、たとえば死刑の執行現場をみんなで喜んでワーッと見ているようなところはないですよね。かつてはありましたが。それは「変わった」ということではないのですか?
河合 その代わりに陰険な殺人は増えてるわけですよ。考えたら、バブルを引き起こして、それが潰れたら責任も取らずに、責任を全部、中年の男に取らせて自殺させてるというのは、見ようによったら殺人ですよ。そういう殺人は増えて、そのときそいつらはワーッてやってるわけ。
吉本 心のなかで。
河合 そう、心のなかで、「あの弱いやつが死んだ」と思ってる。本当は自分が殺してるわけですよ。昔みたいに、目に見える形で殺すということが減って…
吉本 ちょっと複雑になっているだけで。
河合 拍手喝采することは、なくなっているけど(略)」


「吉本 私としては、小説は読んでいる人が心を自由にする空間であってほしいから、(略)技術に関して言えることがあるとすると、技術は偶然にアクセスする最低限のものなんですよ。それがないと、結局偶然にさえアクセスできないと思います。ある程度のレベルを保っていれば、必ずどこかでフッと行けるんだけれど、技術が低いと、それに気を取られて、理屈っぽくなってしまうというか。
河合 それ、すごく面白い言い方ですね。(略)」

「河合 (略)ぼくらは訓練されているから、仕事の部屋へ入っているときは日常会話とまったく違うペースで対話します。(略)
二人の人間が会ってるということは、お互いに、ものすごく面白い影響のし合いをしているわけだからね。それこそ「昨日大阪行ってね、大阪でものすごくイヤなことがあった」と言おうと思って相手の顔を見たら、ものすごいしんどそうな顔してたら、やめるでしょ。「行ってきたんだ」と言って、それ以上話さないですよね。向こうがパッと構えて待っていてくれたら、「ものすごいイヤなことがあった」って言うことができる。(略)そうすると、みんな普通だったら言わないことを全部言ってしまう。(略)その人の心の中で圧力の高いものがバーッと出てくるわけ。普段は、そういうことを抑え込んで言わないようにしているから。」
「河合 (略)現代では、みんなものすごく溜め込んでいると思いますね。たとえば、「パリへ行った」とか言って喜んでいる人がいたとしても、東京からパリへ行くまでの間に、相当溜め込まないかんでしょ。(略)
吉本 思うままにならない。
河合 だから、みんな、好きなことをしているようで、いっぱい溜め込んでいるわけですよ。(略)
そういうことを溜め込みながら旅行していることを、みんな意識してないでしょ。「私、パリへ行ってきたよ。よかったよ」って自慢してるんだけど、腹の底には「面白くなかった」(略)というものがある。でも、それは言えない。友だちの方も、「よかったね」って言うから、「きれいだった」という話ばかりをする。そこで溜まったものは、どっかで出さないといかんことになる。」


「吉本 自分にできることは、体調を整えておくことと、技術のレベルを落とさないことしかないから、「それで呼び込むことができるか」ということですね。(略)私の頭のなかにある空想を、ただ書いているだけだったら誰も面白くなんかないはずだから。みんなの持っている深いところへ一緒に降りていかないといけない。でも、そこでは、みんなに出会えるから、それが楽しい。(略)いろんな人たちが、その深いところに潜って取ってくるんですよ。そこがおそらく人類に共通している場所だから、そこに行って、みんなに会えるのは楽しい。(略)どんなにつらい旅路でも、行くと、「あ、ここは一人じゃない。みんな通ったんだ」って思う。すごく抽象的な話ですけれど。(略)
河合 そこで見つかるものとは、もう少し具体的に言うとなんですか?
吉本 小説の中心になるもの。生命力のような。それこそ偶然によって降ってきた、小説をまとめる「何か」です。(略)」


「河合 「自己実現」などと言い出したら、どうしても命がかかわってきますよ。だいたい、すごく危険度が高くなるから。
吉本 (略)二十五歳だったら気持ちとしては十歳引いて十五歳ぐらいですから、「自分探し」とか言いたくなっちゃいますよね。
河合 そう。だから、つけるとしたら、第一次。(略)たとえば、「ロサンゼルスを知っている、行ったことがある」と言う人がいるけれど、それは行っただけの話でしょ。ロサンゼルスの、どこかには恐ろしいことがあるかもしれない。(略)「ロサンゼルスを知る」ということ自体が不可能なんですよ、本当は。本当は不可能なんだけど、我々は「知ってます」という言葉で安心してしまうんです。自分探しも、それと同じこと。ほんまに探していったら、途方もないくらい、いっぱいあってね。そやけど、「ああ、知ってます」という程度なら言えるわけでしょ。(略)だいたい、はじめは危険なところには行かないから。(略)
ときどき、はじめから危険なところへ行く人がいるんです。そういう人がノイローゼになったりする。(略)
それで、「これがロサンゼルスや」って、何べん言ってもみんなに信用されない(笑)「どういうこと?」って。「面白かったじゃないか」って言われるわけでしょ。「嘘を言うな」、「いや、嘘じゃない。おれは見てきた」。それも嘘じゃないんだけれど。「悟り」というやつも、そういうものじゃないかと思います。(略)
「悟ってしまった」ということは、ないと思うんですよ。
吉本 悟ったら、またその上の悟りがある。
河合 日本以外に、ロサンゼルスというところがあることを知っていますよ」というぐらいが「第一次悟り」じゃないかな。(略)ときどき悟ったようなことを言う人を見てたら、そう思うね。
吉本 やっぱり「悟ったな」と思ったら、それはその人は悟ってないということですよね。
河合 「そこまでは、わかりました」ということやね。それを「悟った」という人に言うと…
吉本 「いや、悟ってるんです」って言われる。
河合 「体験がないやつには、わからない!」って怒られるかもわからんから。」

(抜粋おわり)
こういう対談を読んでいると、河合隼雄さんという方は、ある意味「ブラックホールのような化け物」だったのではないかと、思います。

精神異常者の異常部分をすべて飲み込んで、常に正常であり、かつ、冗談も言っていられるということ。
その異常部分を自分の回路の中で昇華させて、文章として結実させることができるということ。

真に正しいことを公式に語れる。そういう立場にある(あった)。
正しいことを、アンオフィシャルに語ることなど、誰でもできます。正しいことを公式に、かつ飄々と語れるからこそ「化け物」なのであって。

こういうふうになりたいものですね。