元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

 ハタンしたフリをする

本来の日記部分

  • 仕事

現場でヒマ

  • ハタンしたフリをする

仕事を、半ばわざとためこんで、「もうダメ」と、意図的にハタンに追い込むようなヒトたち。。

ホントに、責任がかかった現場においては、仕事を「ためこむ」という選択肢すらないはずなのです、本来は。
自営業だったり、フリーになればわかります。ためこむのは勝手ですが、その代わりに収入が途絶える「だけ」です。
「ためこむ」技能をもっているヒトは、自身がハタンしても収入に影響がないサラリーマン、あるいは主婦。

そして、ハタンしたところで、ホントウは自分で処理しなければならない。自身が責任をもって引き受けたのであれば安易に他人にすがるのは、醜い。

安易に自己破産するかのように、仕事でも安易にハタンして、他人の支援をあおぐ

こういうヒトはもともと、仕事を責任を持って引き受けませんが。。 イヤイヤやっている(だから、自分は常にハタンする可能性がある!)というエクスキューズを対外的にもっておく。その点ではぬかりはありませんね。

たとえば、数日風邪で休んでしまって、仕事がたまってしまったとしても、その量が致命的にならないよう、他人に流れてゆくような道筋をつけておくのも「職能」ですね。
それが職場の「人間関係」というやつです。


こういうヒトが身近にいると、ホント、困るのです。すぐこのヒトたちのせいで余計な仕事がふってくる、という物理的負荷の問題もありますが、精神的にも、こういうヒトたちのふるまいを見ているとネガティブになってきます。

そういうふるまいに対する(世間的な)ペナルティはもっと厳しくあってほしいのですが、なぜか昨今の世の中はこういうヒトたちに寛容。なぜなら、世の中全体がそうなってきているから。。

でも、今後ゆり戻しはあります。なぜなら、誰もがチンタラ仕事をして、誰もが自身の仕事の範囲を責任をもって引き受けない状況になってきたら、自分が他人に依存するのはもちろん、他人の怠慢による仕事も相互に引き受けなければならないわけですから。

他人に依存したくてたまらないヒトは、なぜか、他人の怠慢により発生した仕事を引き受けるのがイヤでたまらないのです。同じことをやっているのに。。


今、思いついたのですが。。
いろいろなタイプ、レベルのコドモが集まる公立学校よりも、同じような収入層、同じような環境で育った私立のほうが支持されている理由は。。(東京で)

たまに発生する、突飛なコドモ(悪玉)、そして、そのコドモを育てた突飛な親に翻弄されたくないからです。

職場でも同じことがいえるのですね。いろいろな個性が集まる職場って、うんざりではありませんか?
いろいろな個性が集まるということは、各人の生産性にばらつきがあるということです。生産性が低い人間はますますチーム、あるいは生産性が高い個人に依存する。(そのへん、ズル賢い)

特にリーダクラスはうんざりしているはずです。

それは、何も言わないといじめがエスカレートするのに似ていませんか?


職場も、同じような生産性の人間を集めて均質化したほうがいいのです。そうすれば1+1=3ぐらいになります。
悪玉が一人混入すると、1+1+0.5=1.5 になります。

だから、悪玉は悪玉で同じチームにして「奇跡の融合」でも待っていればいいのです。

抜粋・紹介

親鸞の核心をさぐる―徹底討議

親鸞の核心をさぐる―徹底討議

吉本(隆明):(略)素朴なかたちでの<信>ということをすっぽりと受け入れて、そしてもし浄土っていうのがあるなら、それも死後の世界として信じていてという、そういうあり方に、好意をもつというんでしょうか、シンパシーをもちます。もちろん本当の理路からいけばそれは嘘だ・・・、とことんまで理念の上では追いつめたくてしかたがない。自分のなかには多分二つの正反対の気持ちがあるように思います。だけども、なぜかとても好意をもてるというんでしょうか・・・。自分流の言い方をしますと、<信>と<知>ということになるわけですが、<知>というものが登場したり、それに接触したりしない人間の原形というものが考えられるとすれば、その原形というのを保っている人のなかにしか、その種の<信>はもちこたえることができないはずなので、そういう意味でとても好意をもつといいますか、肯定的なんです。
ぼく自身は全く正反対で、理念としていえば、どこまでもほっくり返していって、そんなのは嘘です、というふうに問いつめたくてしようがないみたいです。一種の矛盾ですけれども、自分のなかにあるのはそういう矛盾のような気がします。
(略)
これは<信>をもっている人には承認しがたいことでしょうが、(略)<不信>の側から永続的な問いつめがあって、その問いつめに呼応するといいましょうか、対応するように、<信>の側が、閉じようとする<信>を、いつまでもこじあけられちゃうという状態で、<信>を持続できるものがあるとすれば、その両方が呼応してどこを目指しているのか・・・、たぶんそれは<真理>という概念に当たるものを目指しているんだという気がするんです。そうすると信仰の人からすれば、そんなことは嘘なんで、<真理>よりも信仰を下におくということは不服であるということがあるかもしれません(略)
(抜粋・紹介おわり)

再録

  • 会社シリーズ(20070503メルマガ)

企業とは、ネームバリューそのものが、セールスポイントなのでした。ほとんどの学生、転職希望者は、「名前」で就職、あるいは転職するのです。これは紛れもない事実です。

以前書いたと思うのですが、就職、転職というのは、親のためにするぐらいの意識でちょうどよいのではないかと思っています。親は、コドモがわかりやすい善行をするとものすごく喜びます。

今もムカシもそれは変わりません。就職に関していえば、「公務員」「教員」「教授」それと、コマーシャルにも出てくる、ムカシから名の通った誰でも知ってる大企業、というのは無敵です。無敵というのはつまり、親が近所づきあいで鼻高々でいられる、ということです。

知る人ぞ知る、今後の成長が見込まれる企業など、親は知らないのです。
それと、ぽっと出で宣伝打ちまくっているベンチャー企業に対しても親は渋い顔です。なぜならば、その時点では将来性を保障されていないからです。

収入などは関係ないんですね。たとえば怪しい青年実業家になって稼ぎまくっても、肩書き的には「孝行息子/娘」にはなれないのです。(ただし、直接的に年間何百万も親に仕送りできるのであれば別です それはとても「わかりやすい善行」ですから)

余談ですが、ここ10年ぐらいは、コドモがタレントになると親は大喜びのようです。それも非常に「わかりやすい」からなのですが、芸能に対するダーティーなイメージ(「興行」)が徐々に払拭されていること、それと、高学歴タレントが露骨に増えてきているのが大きいのでしょう。